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とりとま

太陽とサカナとコーヒー(微糖)とチャリがあれば、とりあえず、まあまあ、生きていける。  

とりとま生きていけるということは、無限に生きていける。

寿命の話ではないし、「お金」は野暮なツッコミ。
「太陽」以外はコストが掛かる。
「サカナ」は釣りのほうではないから、バッテリーさえあれば聴けるが、タダというわけではないし、「チャリ」もブレーキが弾けたばかり。「コーヒー(微糖)」は言わずもがな。

あるに越したことはない――それがお金だ。
しかし、最近、何となく思ったのだが、お金は好きだが、お金という概念は嫌いなようだ。
社会性を失しているという意味で、これ以上の矛盾は無い。

「社会」とは何か?
と問われたら、まず最初に来る答えは「お金」だ。
お金が一番に来ない社会は、今も過去も存在しない。お金が存在しなかった頃の人間の集いは、社会ではない。
別の言葉を当て嵌めるべきだろう。

しかし、お金が誕生して随分経つのに、過去も今もお金という概念に拒絶反応を示す人間は、一定数いる。

だが、間違ってはいけないのは、お金という概念が嫌いということと、お金が嫌いということは、別であるということだ。
以前、「お金が全てじゃない」というニュアンスのことを、20代の先輩との会話で漏らしたら、ギラついた様子で“お金を否定する奴を否定する”話を始められたので辟易した。

誰も「お金が嫌い」とは言っていない。
大谷翔平ほど貯金パンパンなら、お金という概念に苦手意識を持つこともなくなるのだから。

お金という概念を卒業するためにはお金がいるのだ。
社会が社会である限り、一定数の人間は、この矛盾の中で足掻き続ける。

何だか説教臭い文章になってしまった。
けれど、声では上手く説明できなかったので、いい機会であったとしよう。
わかりやすく言うなら、細かなお金の計算、または計算間違いは気になるのに、高額の支払いをしたり、パーっと散財することは気にならないメンタルは、このロジックに当て嵌まっている。
そんな気がする。何か。何となく。

ちなみに、「山口一郎」が死んでも無限じゃなくなるというのも野暮。
「若者のすべて」で、志村正彦がそれを証明している。

とりとま、太陽とサカナとコーヒー(微糖)とチャリがあれば、生きていける。
時に歌いたくなるので、そこに若者のすべても加えれば、保険としては十分だ。

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