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だから、何?

寒いところにいるから暑いところに行く。
暑いところにいるから寒いところに行く。
それだけ。

足並みを無理に揃えに行かないから孤独じゃない。

眼鏡を探しているだけで何かを探していることに気付く。

むかし、猫が絶命する瞬間を見たことがある。
特に田舎でも、都会でもないありふれた道路。
野良猫をたくさん見かけるわけではないが、飼い猫には見えない。

車にぶつかった瞬間は見ていない。

多分、鈍い変な音がした――そんな違和感を受けてそちらに目を向けたのだと思う。

猫がよろよろと歩道の方に歩いて行った。
車は走り抜ける。
2台以上は走っていたから、何色だったか?どんな形だったか?
そして、これは脚色が入ってしまっているかもしれない。猫が車道の方を睨むようにして――

ニャアアアァァァァァ

耳をつんざくような声で鳴いた。

これは車に轢かれたのだと思い、猫の方に近寄って行ったら、雨でもないのに、猫を中心に車道に向けて歩道が濡れている。
血ではない。
最初は何なのかと思ったが、絶叫とともに失禁したのだ。

何も出来ないはずなのに、何かしなくてはならないと、手当てをすることを前提に、もとい誰かに手当てをさせることを前提に、轢かれた猫を見ていたのだが、排泄器官も運動をやめるなか、瞼ではない、眼球と瞼の間にある“瞼のような何か”が下りてきた。
「まぶた」は“目蓋”とも書くが、その何かはシャッターのような硬質さを見るものに与え、世界を見ることをやめた冷たい意思を感じさせた。

この時、猫は生き物から無機物へ変わった。
生命の宿っていない肉になった。
平和ボケに浴している自分は、失禁とともに放たれた絶叫が、大きな悲鳴だったわけではなく、断末魔の叫びであることに気付いた。

その後、近くにお寺があることを思い出し、当時も休職期間中だった自分は、面倒だなあと思いながらも、その寺に猫を持って行くことにした。
断言してもいいが、レディーを慈しむよう抱きかかえたりはせず、自分の体との接触ぎりぎりに留まる範囲で運んだ。
自分のことだから、決して応えるはずのない相手に対し、
「こっちにションベンかけんなよ」
とか、話し掛けながら運んだと思う。

ペットなど飼ったことがないので、「猫とはいえ、生き物の骨ってのはごつごつと硬えなあ」と、持ちながら思った。
しかし、その“ごつごつとした硬さ”では、車の“なめらかな硬さ”の前に、到底敵わなかったわけだ。

100mほど離れたお寺では、いくつかの墓石を挟み、社屋まで少し距離がある。
自分は、社屋のインターホンを押して、事情を話した。
最初に女の人の声が出てきて、次に住職に代わった。だから、玄関まで人が出てくることはなかった……のだと思う。
ここでお別れできるとばかり思っていた自分は、この面倒が続くことにがっかりした。

住職は、“どこそこの寺だったら動物の取り扱いもしている”という話を繰り広げた。
自分が食い下がったからかもしれない。
上手く話が伝わらなかったのか、こっちは長年連れ添った愛猫を葬儀に出したいと言っているわけではない。
引き取ることは無理だとしても、お経の一つくらい上げに来てくれてもいいんじゃないのか?!――どうせ自分も猫も、動物専用の念仏なんか知らねえんだし。
お寺を諦めた自分は、おそらくそんな悪態を吐きながら、さらに数十メートル離れた交番へ持ち込むことへと切り替えた。

お巡りさんは、それが仕事だ。
さすがに拒むようなことはしなかった。
しかし、内容を把握すると、すかさず奥の部屋から害獣駆除用に常備しているだろう袋を持ってきて、ドタバタと遺体を収容するのを見、少しだけ虚しさのようなものを感じた。
十分「気持ち悪ぃなあ」と思ってきたのに、世間の「気持ち悪っ!」を見るのは嫌なのか、とドタバタを尻目に思った。

――そんなことがあったことを思い出した。
最近見つけた動物の亡骸も、俗世からの隔絶を望むかのように、“シャッターのような第二の瞼”を下ろしていたから。

人間にはない器官
どこで死んでんだよ
さよなら

生憎の自転車なので、しょっちゅうウザ絡み(職質)してくる公職の方々に任せることにした。
人間のような瞼があれば、それを下ろすだけで済ませたのに。畜生が。

死ぬまで生きる。
だから、何?

「野田洋次郎」の才能が枯れたら、代わりにコピーライターをしてもいい。
仕事募集中(笑)。

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