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加藤の乱 失敗の本質 -クーデターはなぜ鎮圧されたか-

みなさんは加藤の乱をご存じでしょうか。
2000年前後に生まれた今の若い世代は、
何のことやらさっぱりと言ったところでしょうか。

あるいは、たまにニュース等で流れてきて、
歴史として知っている方も多いかもしれませんね。

今回は、加藤の乱とはいったいどういうものだったのか、
おさらいしつつ、
この世間を驚かせた前代未聞のクーデター劇が、
なぜ失敗したか、私なりの理由を書かせていただきたいと思います。


まず、加藤の乱のおさらい

そもそも加藤さんって、どんな人?

加藤の乱の加藤って誰ですか?と言う方も、
今や珍しくないかもしれません。

この加藤の乱の加藤さんとは、
加藤紘一という方ですでに逝去されていますが、
実は結構な大物で、
現内閣総理大臣の岸田文雄さんが率いている
岸田派こと名門派閥宏池会のトップだった方です。

中曽根内閣で防衛庁長官、宮沢内閣では官房長官、
そして橋本内閣では幹事長と、
順調にキャリアを重ね、
「宏池会のプリンス」と称せられた、
まぎれもない総理総裁候補でした。

また、かつて自民党を支配していた竹下派(現茂木派)に対抗するために
結成された「YKK(Y=山崎拓、K=小泉純一郎と加藤紘一)」の
一人でした。

長期政権を築いた小泉純一郎元総理とも対等な関係だったことからも、
いかに存在感のあった政治家かがうかがい知れると思います。

いや対等どころか、党三役や国務大臣のキャリア、
派閥のトップに選ばれていることから考えると、
むしろ加藤紘一さんの方が明らかに上の存在だったのは、
否めません。

総理大臣になる前の小泉純一郎さんは、
郵政大臣や厚生大臣ではあったものの、
党三役の経験もないし、
森喜朗内閣時に派閥の会長ではありましたが、
森さん不在時の雇われ店長みたいなものでしょう。
(ちなみに、山崎拓さんは山崎派の会長)

なぜ乱を起こさなければならなかったのか

すべては橋本内閣の総辞職から始まる


加藤さんは、先述のとおり、橋本内閣時(1995年~1998年)幹事長ポストについておりましたが、98年の参院選で惨敗したことから、橋本内閣は総辞職します。

その直後の98年の自民党総裁選に勝利した小渕恵三さんは、自自公連立(自民党に加え、小沢一郎率いる自由党と公明党との連立政権)を推し進める方針を取りましたが、それに反発したのがYKK。

翌99年には、97年の橋本総裁分の任期が切れたことで再度実施された総裁選に、加藤・山崎両名が出馬。

小渕さんの無投票再選を阻止しようと動きます。

YKKから加藤・山崎両名が出馬するも、事前の予想通り現職の小渕さんに敗れました。

壮絶な加藤外し

しかし、総裁選出馬を今後の試金石としていた加藤・山崎両名に対し、無投票での再選を望んだ小渕さんは、2人が総裁選に出馬し自分を追い落とそうとしたたことにご立腹。

これをきっかけに、普段は温厚な小渕さんは、加藤・山崎派を徹底的に干していきます。

非主流が干されることは政争の常であるが、小渕の対応は従来の処遇の範疇を超えていた。小選挙区制導入により、徐々に執行部の権力が強くなっており、非主流派となった両派の立場は一層厳しいものとなりました。

党役員人事では、加藤さんが推した小里さんの総務会長就任を蹴り、かわりに加藤さんに総裁選に出馬することを止めていた池田行彦さんを政調会長に据えました。

加藤さんの言うことは意地でも聞かないという意地が垣間見られます。

その他にも、加藤さんに近しい立場だったとされる野中広務官房長官が更迭される等、徹底的な加藤パージが進められました。

これを見ると、維新の党代表選の争いが可愛いもんに見えます。

当時の加藤さんは、改革派のイメージが強く、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していたそうですが、この扱いの悪さに加藤さんは総理総裁の道が大分遠のいたと感じていたかもしれません。。

非主流派となった加藤派も山崎派も干され続けた末、2000年4月に小渕さんが急に亡くなることになりました。

その後、自民党重鎮らによるによって密室談合で森総理総裁が誕生することになります。

森内閣発足も・・・


しかし、森内閣は、神の国発言、内閣官房長官のスキャンダルによる辞任などにより、内閣支持率は低迷を続け、壮絶な不人気。

当時のことを思い出すと、とにかく森さん本人も古臭い感じもしますが、森内閣自体清新さに欠け、なんとなく古臭い政治の象徴みたいな印象を受けたのが、今でもはっきりと覚えています。

現職閣僚も落選するなど2000年6月の衆院選も低調な結果になり(自民党は38議席減の233議席)、このままでは翌年に控えた参院選も惨敗になりそうだという危機感が広がります。

何せ1998年の参院選も敗北した中、このままでは、自民党等の連立内閣の参院過半数が崩れ、ねじれ国会に持ち込まれる危険性すらささやかれ始めていました。

ついに加藤紘一が立ち上がる!

そんなこんなの2000年秋本会議です。
加藤さんは、野党が提出する内閣不信任案に同調すること、
あるいは本会議を欠席することを仄めかします。

衆議院の議席は与党が480人中271人を占め、過半数より31人上回っていましたが、衆議院の加藤派45人と山崎派19人の計64人が造反をすれば内閣不信任案が可決され、森内閣は内閣総内辞職か衆議院解散となります。

永田町だけでなく日本全国でこの動きが一気に注目を集めていきます。

何せ、失言連発で圧倒的不人気の森内閣に、
国民は大いに不満を持ってましたから、
世論は一気に加藤さんを後押ししていきます。

序盤は優勢も、しかし・・・

加藤さんはうまくマスコミを使い、
イメージ戦力を効果的に行い、
世論の期待をつなぎとめていきます。

「私の携帯には菅さんの電話番号が入ってます」

と、盛んに当時野党第一党であった民主党の菅直人氏らとの
密接な関係をマスコミにアピールし、
野党と歩調を合わせられる状況にあるということを示唆して、
不信任案可決の現実味を印象付けます。

しかし、ここから猛烈な切り崩し工作が始まります。

加藤さんと近しい関係にあった野中広務さんや、
そして、加藤・山崎両名と並んでYKKの一角であった
小泉純一郎さんまでもが乱鎮圧に乗り出します。

あれよあれよと切り崩しが進み、
他派閥への広がりはおろか、
加藤派の中でもまとめきれず、
決定打となったのが、
加藤さんの側近たち(丹羽雄哉、古賀誠両名)らの離反。

信頼していた側近らの謀反は、加藤さんの戦意をくじきました。

そして、あの有名なホテルオークラでの涙の会合へとつながるわけです。
(トップ画像参照)

結果、加藤の乱は鎮圧され、内閣不信任案は否決となりました。

乱後の顛末

加藤の乱鎮静後、党内第2派閥であった加藤派こと宏池会は分裂します。
加藤派と反加藤派に分裂し、保守本流を標ぼうする名門派閥は、
少数派へと転落し、影響力を失っていきます。

一方乱に同調した山崎派は、
加藤派と打って変わって、
派閥離脱が1名出たものの、
結束を維持し、他派閥からも一目を置かれることとなります。

山崎さん自身は、以後党幹事長や副総裁等の重要ポストで遇せられ、
一定の影響力を維持しました。

また、切り崩しに功績のあった小泉純一郎さんは、
党内での存在感を高めました。

あとはみなさんご存じのとおり、
翌年には総理総裁へと昇りつめ、
長期政権を樹立することに成功しました。

こうしてみるとYKKの3人の明暗が
くっきり分かれたのがわかります。

加藤の乱はなぜ失敗したのか

さて、いよいよ本題です。
ではなぜ世論の強力な後押しを受けていたにも関わらず、
加藤の乱は鎮圧されたのでしょうか。

そこのあたりを分析するには、
小沢一郎さんやその他が大勢自民党を離党し、
日本新党・新党さきがけ・新生党等の新党ブームで、
自民党を下野に追い込んだ、
1993年の政変時と比較するのが
わかりやすいかもしれません。

要因①選挙制度の変更と執行部の権力強化

何と言っても、
93年の自民党下野のきっかけとなったの小沢一派らの離党時は、
まだ、中選挙区制でした。

党から公認を貰えなくても、
選挙区の一定の支持さえしっかりつかんでいれば、
衆議院議員は当選することができました。

しかし、小選挙区制が導入となった後は、
執行部の出す党公認が重要な意味を持ちます。

何せ、選挙区で受かるのは1人だけ。
自ずと、政権与党と野党第一党の候補に
票が集まりやすい仕組みとなっております。

なので議員らにとって、党の公認は、
中選挙区の時代よりも大きな意味を持っていました。

そのため、執行部からの
「党公認を出さないぞ」という脅しは、
結構重くのしかかったことと考えられます。

したがって、小沢さんとその一派その他が、
内閣不信任案に賛成に踏み切りやすかった状況であったのとは対照的に、
加藤の乱の時には執行部の権力が強くなり、
締め付けが効きやすかったというのが、
大きな要因となっていたと考えられます。

要因②加藤紘一の政局観・政治的センス

2点目は、加藤さん自身の政局観の無さかもしれません。

当時自由党党首だった小沢さんは、2000年11月17日(金)に不信任決議案を提出するよう、当時民主党代表だった鳩山由紀夫さんに申し出ました。

なぜこのような申し出をしたかというと、週末に議員が地元に戻り、後援者から不信任案への対応を考え直すよう説得される危険性が考えられるためだったとされています。

しかし、加藤さんは
「土日で逆に派内議員を説得する」と主張し、
鳩山さんは同年11月20日(月)に提出することとしました。

結果的に土日の間に切り崩され、
加藤派所属衆議院議員の半数は加藤さんから離反することになりました。

これはもう加藤さんと小沢さんという
2人の政治家の比較になってしまいますが、
政局観という面において、
加藤さんは乱を大成させるだけの力が無かったことを
如実に物語っています。

後援者の言葉を重く受け止める議員という生き物に対する洞察力が、
小沢さんと加藤さんの不信任案提出タイミングに対する判断を分けたと言っても過言ではないでしょう。

これは、かつて田中角栄の薫陶を受け、
最年少で自民党の幹事長まで上り詰めた
小沢一郎さんとの経験値の差もあるのでしょうが、
政局に弱くお公家集団と揶揄される宏池会たる所以もあるのでしょうか。

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