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絵の中の




その場所の名は「果てのない美術館」といった。

天井の高い回廊は霞むほどに遠く彼方へと続き、その終わりが見えない。
冷たい階段は遥か見上げる先へと高く昇って霞み、深く昏い地の底へ降りて消える。
宮殿の荘厳な層は幾重にも折り重なり、歩けども歩けども絵画や彫刻の数は尽きることが無かった。
柱は磨かれた大理石の床に揺らめく蝋燭の影を落とした。
延びる回廊にも窓から見下ろす中庭にも、どこにも人影は無かった。


私は立ち止まり、とある絵を見上げた。
闇夜の海面を、流木にしがみつき流される女の絵だった。
波がうねり女がこちらを向くと、その目から止め処なく涙を流している。
女の涙の溢れるほどに海は嵩を増し、波は高くなるようであった。

女は言った。
「いずれ私は、自分で満たしたこの海に沈むでしょう。
溢れて張り裂けてしまった。
もう止めることはできない。
何もかも手遅れだから。」

女の姿が、闇の中で時折り走る稲妻に浮かび上がった。
濡れた長い髪が青ざめた額や頰に張り付いている。
絶えそうな息で流木に爪を立てながら、黒くうごめく水に為す術も無く呑まれていく。
そのまま私が眺めていると、その姿は波間に遠ざかり見えなくなっていった。
女の腕が力尽きて躰が滑るように水中へとかき消えた気がしたが、壁に飾られた大きな額縁の中には今や昏い海が広がりうねるだけで、確かめることはできなかった。
そんな絵だった。


私はまた、別の部屋でこんな絵を見た。
ベルベットの寝椅子でゆったりと寝そべる一匹の美しい雌猫の絵だった。
猫は穏やかな顔つきで黙ってそのふくよかな身を横たえ、生まれたての子猫たちに乳を吸わせていた。
子猫たちは五、六匹もいようか、騒々しく鳴き声をあげながら折り重なり我先にと乳を奪い合っていた。
その様を雌猫は丸い瞳でじっと見つめていた。
「これは私の子供たちよ。」
と、雌猫はこちらを向いて言った。
「こうしてこの子たちに乳を吸わせて、送り出して、そうしてそろそろ私の生命は終わるの。
皆がそうして生きて死ぬ。
ただそれだけのことよ。」
しばらく眺めていると子猫たちは見る間に大きく育ち成猫となった。
彼らはあれほど狂おしく吸い付いていた乳からふいと身を離すと、画の縁から一匹、また一匹と去っていった。

最後の一匹が去っていくと、雌猫は深い深い息をついてゆっくりと目を閉じた。
額縁の中、ベルベットの寝椅子の雌猫はいつの間にか年老いて痩せ、小さく見窄らしい毛玉のようになっていた。
猫はそれきり動かなくなった。
そんな絵だった。


翳った小さな部屋の壁に飾られた小さな絵は、こうだった。
深い森の中に一軒の邸宅がある。
暮れになると灯りがともり、夜が更けると消える。
庭には花が溢れていた。
満ちた月が昇り、欠けた月が昇り、月の無い闇夜があり、それが繰り返された。
何人かの子供達がそこで生まれ、生きて、そして老いていったようだ。
幾つかの婚礼の儀があり、馬車で来る者と去る者があり、葬儀があった。
季節が幾度も巡った。
星座は数えきれぬほど天を駆けた。
いつしか馬は死に、灯りは再びともされることがなく、庭に屋根に雪が積もった。春の花は咲かず全てを硬い蔓草が覆い、その邸宅は朽ちて廃屋となった。
森は変わらずに深い。
満ちた月が昇り、欠けた月が昇り、月の無い闇夜があり、それが繰り返された。
そんな絵だった。



幾つもの景色。
私は「果てのない美術館」で人々や動物たち、山々の峰や森の陰影、移り変わる四季、朽ちていく果物、繁栄しては滅び去る国々、過ぎ行く年月を見た。
人は愛し合い寄り添い、争っては別れ、朽ちて消えていった。歴史は繰り返され、時間はもう何の意味も持たなかった。



そうして静かな回廊の彫刻たちの間を抜け、とある大きな部屋に出た。
壁一面に大小、数々の絵画が飾られる中、私はまたひとつの情景の前で立ち止まった。
それは咲き乱れる花々の丘で十字に組まれた木に括り吊るされた女の絵だった。
両の腕は広がり掌に楔打たれ、首を深く前に落とし躰は力無く、女はぴくりとも動かなかった。
生きているのか死んでいるのかわからないその女を、私は長い時間をかけて見ていた。

どれくらい時が経ったのか。
項垂れたままの女が顔もあげずにこう言った。
「私は、自分で犯した罪ではない罪で磔になっているのよ。」
思いのほか、強く凛とした声だった。
「どうして」
私は尋ねた。
「さあ、どうしてかしら。」
彼女はこたえた。
「背負わされた罪でも人は磔にされるものだから。」
私は黙って彼女の姿と花々を眺めていた。
絵の中では遠く太陽が傾いていたが、白夜であるのか暗闇は訪れず、優しく曖昧な光に全ての輪郭が霞んでいた。

女が語る。
「こうして花に埋もれて身動きもできずに、私は思い出している。
忘れたいことを一つ一つ思い出している。
一切を忘れることが許されない、これはそういう罰なのよ。」
彼女は両手を杭で打ち付けられて、人々への警告のようにそこに掲げられていた。
「忘れたくて、忘れたくて、何かで埋めてしまいたくて、私はいろいろなものを見たわ。醜いものも美しいものも、この目であらゆるものを。
けれど忘れることはできなかった。
幸福をいくら積み重ねても不幸を贖うことはできない。取り返しはつかない。
目を閉じると、全てを昨日のことのように鮮やかに思い出してしまう。
私、消えてしまいたい。
消えてしまいたい。」
それきり彼女は黙ってしまったので、あたりには再び静寂が広がった。



部屋を出ようとした背後から、一体の彫刻が私を呼び止めた。
大きな弓を持った猟師の彫刻だった。
彼は言った。
「門が閉じる前に外に出るといい。
そして忠告しよう。
『決して迷子になってしまわぬように』と。」
たしかこの猟師は身の程知らずにも女神に恋をして八つ裂きにされてしまった男だ。
私は礼を言ってその部屋を後にした。

門を探さなくてはならない。
閉ざされてしまう前に。


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