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猫と祠とペットレスの女

 手のひらからあふれる大きさと重さ、そしてまだまだ失われていないハリを楽しみながら、俺は女友達の乳房を後ろから抱きしめ、うなじに唇をはわせる。
「だめよ……ふぅ……きょうは帰らなきゃ」
 いつもの甘やかな吐息とは裏腹に、俺の手を振りほどく力の強さは、かたちだけの拒否ではない。わざわざ時計を見るまでもなく、俺もわかっている。女友達が身支度を整え、帰宅するまでの時間を考えると、もうすでに遅いかもしれないくらいの、そんなころあいだ。
 俺は女友達の名前を知らない。
 知っているのはソーシャルアカウントの表示名と、年下の夫がいるけど子供はいない、つくるつもりもないって、そのくらい。女友達は俺の他にも肉体関係を持つ相手がいて、それは異性も同性もいるし、俺抜きで複数いたときもあるし、そういうお相手を交えて行為したことだってある。でも、そういう関係がとても心地よく、そしてかけがえのないものに思えていた。
 俺はそっと離れ、女友達が髪を乾かしていた大きめのタオルを受け取って、洗濯かごへ放り込んだ。まもなくドライヤーの音が響き始め、楽しく淫らな時間の終わりを告げる。手持ち無沙汰な俺は、女友達が帰る前にお茶くらいできるんじゃないかなと思いながら、携帯を持って台所へ引っ込んだ。
 すると、見計らったかのように、スマホが着信を知らせる。
 音声通話だ。珍しいな。
 思いながら端末を手に取ると、白黒ハチワレ猫の画像が表示された。
 これは、これは、なにか厄介事だな。俺は即座に画面へ指をすべらせ、ひと呼吸おいて「どした?」と応える。
「どもです。微妙な通知で迷ってるんだけど、時間かけられないから通話したんよ。あ、もしかして、取込み中?」
 それなりのお値段をした割に、俺の声なんかろくすっぽひろわない。そのくせ、ドライヤーの音はきっちりひろう、とっても賢い電話スマートフォンが髪を乾かす女友達の鼻歌までハチワレのママ、かつてペットレスに打ちひしがれていた彼女へ送信しているようだ。
「いや、大丈夫。静かなところへ動くから、このまま話そう」
「うーん……画面共有したいし、できれば事務所のパソコンでお願いしたいんだけど、できる?」
 申し訳無さそうなペットレスの女に、俺は「わかった、大丈夫。彼女、俺の仕事もある程度は知ってるから、気にしないで」と告げ、いったん通話を終えようとする。
「ちょっと、まさか」
 鋭く、そしてあからさまに警戒心を含んだ声に、俺は「いや、そっちも大丈夫。長い人だから、細かく言わなくてもだいたい察してくれる」なんて、無意味な言葉をまき散らしてしまう。
「あぁ、あのきょにゅぅう人妻ね。まだ続いてたんだ」
 むしろ、察してくれたのはペットレスの女だった。ただ、彼女が警戒するのは当然で、俺も秘密厳守の案件だと、重々承知しているつもり。そもそも、ペットレスの女と組んだのも、その能力や技術、経験だけではない。彼女の口が堅く、そして初対面の男としか関係を持たず、しかもそれっきりで関係を絶ってしまう孤独な心情も含めて、この件にふさわしいと考えたのだ。
 俺は寝室で身支度中の女友達に「ごめん、仕事が入っちゃった。下の事務所で作業してるけど、終わったらメッセ飛ばすね」と告げ、ねんのためノート機や電源などを手提げに詰め込む。女友達は「まぁ、残念……もし、時間かかるようなら帰っちゃうけど、大丈夫かな?」なんて、いちおう笑顔を作っているが、目元にはどことなくいらだちがさしていた。
 俺は、女友達の眼差しを避けるようにかがんで手提げを持ち上げ、小さく「ごめんね、そんなに時間かからないと思う」とだけ言って、階下の事務所へ向かう。

 事務所のパソコンを立ち上げると、ネット会議の招待状が表示される。もちろん、招待したのは白黒ハチワレ猫アイコン、ペットレスの女だ。

 入室すると、待ちかねたように、ペットレスの女が通話を始めた。
 いや実際、待たせてしまっていたのだけど、ネコとアニメとゲームとマンガとボーイズラブの話でもないのに、こんなに急ぐのはよほどのことだ。胸騒ぎとともに、なにか苦い気持ちまでこみ上げてくる。
「手短に言うよ。まずこれみて」

最初のポスト ガソリン凸
それ以降 ⛽🔥🤬や⛽🔥💀を 繰り返しポスト。

「おい、これは……」
 さすがの俺も息を呑んだ。
「いちおう、全部スクショ撮ってる。ただ、最初の『ガソリン凸』はすぐに消されちゃった」
 ペットレスの女が言う間に、俺もスマホで投稿者のタイムラインを確認した。

⛽🔥🤬
⛽🔥💀

 たしかに、きな臭い絵文字が繰り返しポストされている。ただ、それよりも気になったのは日の丸アイコンと外国人や同性愛者を排斥し、夫唱婦随を唱えて選択式別姓を攻撃する発言の数々、そして『人工知能は人間を滅ぼす』と大書されたサムネも禍々しい、動画チャンネルへのリンクだった。

 俺とペットレスの女は、この数ヶ月ほど世界的に有名な人工知能制作者から依頼された仕事、つまり彼女を誹謗中傷した人々との和解条件が誠実に履行されているかどうかの、監視業務に携わっていた。
 その和解条件とは『和解に合意した点も含め、本件訴訟については両者とも今後一切口外しない。また今後は互いに相手方をソーシャルネットなどで言及しない。別のアカウントやメディアによって発信されたものも含め、上記条件に反した場合は、本和解案を公にしたうえ、左記違約金をうんぬん』というもので、遵守状況をネットで監視する点も明記されているらしい。
 そのうえで、人工知能制作者がソーシャルネットで粘着されそうになったり、デマを吹聴されたら、素早く察知して弁護士へ通報し、然るべき措置を講じるエビデンスも確保、提供する。おおまかに言って、総合的にソーシャルメディアを監視する。大げさに言えばプライベートのネットウォッチャーと、まぁそういう仕事だった。
 ソーシャルネットでの誹謗中傷も、人工知能制作者が優秀な弁護士と組んで提訴し始めてからは、だんだん治まっていってるらしい。俺とペットロスの女は、最初はどこから手を付けたらよいものか、頭を抱えていた。だが、それこそ人工知能を使いこなして、最近はほとんどボット任せでも大丈夫だった。
 おかげで以前のようにのんびりと、あるいは引きこもって暮らしてる。ただ、どうしても人間のチェックを必要とする、微妙な、あるいは複雑な文脈の投稿もあって、そういうときは俺とペットロスの女で話し合ったうえ、最終的には弁護士の判断をあおぐ。
 そして、いま画面に表示されている絵文字は、まさにそういう文脈把握を必要とする、微妙な案件だった。
「これにゃ……まだ『ガソリン凸』が残っていたら、運営通報して先生にスクショを送って終了……だったにゃ」
「うん、でも消されちゃったから、俺に連絡したんでしょ?」
「そういうことにゃ」
 共有画面の向こうで顔をしかめるペットレスの女が目に浮かぶ。
「垢主は……元自衛官で地域自警団を主催って、通報確定やな。御本人の経歴含め、消されたといえど『ガソリン凸』はやばい」
 俺は即決した。深く考えるまでもない。
「いいよ。私も同意にゃ。アグリーとグラにゃ。でもさ、いま、気持ち焦ってない?」
「大丈夫!」
「けど、きょにゅぅう人妻をまたせてるにゃ」
 きょにゅぅうなんて、ちょっとちゃかすような口調だが、ペットレスの女は真剣そのものだろう。
「いや、むしろ彼女だから大丈夫。そのへんはわかってるし」
「ならいいにゃ。とりあえず先生に連絡するから、運営の通報は手伝ってね」
「りょ」

 俺が担当する監視ボットから運営に通報したら、残りと先生への連絡はペットレスの女にお願いして、女友達へ『終わった。もどる』とメッセを飛ばす。女友達はすっかり支度を整えていて、もう少し遅かったら帰るところだった。かろうじてお別れのキスとハグはできたものの、ほとんど入れ替わるように部屋を出ていく。

 しょうがない。
 こういう日もあるさ。

 女友達が買ってくれた上等なチョリソをじゃがいもと炒め、スペイン風の目玉焼きをのせて晩御飯にすると、どうにもこうにも我慢出来ないほど眠くなったので、風呂にも入らず寝てしまった。

 翌朝はいつものように起きて、ねんのためガソリン凸のアカウントをチェックしたら、はやくも凍結を食っていた。画面の【アカウントは凍結されています】って表示を見ながら、ずいぶん仕事が早いもんだなんてひとりごち、それからはのんびりしていた。ところが、お昼すぎの電話から、なにかがおかしくなっていく。

 電話の相手はこの仕事を依頼した弁護士の先生。こともあろうに、先生の事務所へ電凸したらしい。おまけにあれこれ暴言まで吐いたらしく、先生は『威力業務妨害で警察に相談した』と、概ねそんな感じだった。
 幸い、人工知能制作者は海外のカンファレンスに出席していたから問題なかったけど、自宅を特定して放火って可能性は捨てきれないので警察に警備を依頼するとか、ねんのため俺とペットロスの女も外出時は注意するようになどと、真剣に心配してくれる先生の声を、俺は呆れながら聞いていた。
 とはいえ、注意するもなにも、わけがわからない。現実感がとぼしいどころか、通話を終えてもたちの悪い冗談ではないかと、そんな思いは消えない。
 ともあれ、ペットレスの女へ連絡せねばなるまい。それも、通話だな。
 いまの仕事でペットレスの女に音声通話を送信するのは【急ぎの用件だけ】と、彼女から繰り返し釘をさされていたが、これはほとんど緊急事態だ。俺はやれやれとため息をまき散らし、とっても賢い電話スマートフォンを手に取る。
 ペットレスの女はワンコールで出た。予想外にに早いというか、ソーシャルでもチェックしてたのかな?
 ざっくり要件を伝えると、人工知能制作者への連絡はどうするとか、ちょっと意外な反応だ。まぁ、仕事でやり取りを重ねてる間にも、ペットロスの女は人工知能制作者のきっぱりした物言いや態度に心酔してるんじゃないかと思う瞬間が多々あったから、考えれば当然かもな。
 ともあれ「現地は夏時間やで、まだ夜中や、寝てるか、もしかしたらパーティーかもしれない」と答えて思いとどまらせたら、こんどはモンちゃん、つまりペットレスの女が新しくおむかえした白黒ハチワレ猫の心配をする。相手になってやりたいが、ペットレスの女はネコとアニメとゲームとマンガとボーイズラブの話を始めたら最後、いつ終わるかわからない。しょうがないので『無料通話時間が切れる』なんて、よく考えなくてもひどい理由で終了させてしまう。

 だいたい、ガソリン凸の投稿主は俺やペットロスの女の存在すら知らない。矢面に立つのは弁護士の先生だし、もし人工知能制作者の家を特定しても、そこから俺につながる情報は得られない。ペットロスの女にいたっては、弁護士の先生すらメアドとチャットアカウントしか知らない。いちおう人工知能制作者には住所を伝えているが、ネット監視業務とは紐づいていない。つまり、ガソリン凸の投稿者は俺達までたどりつけない。それは、ほとんど不可能だろう。
 そこまで考えると、なんだかすっかり疲れてしまった。
 午後は別の仕事を進めなければならないのに、どうにもこうにもやる気が出ない。無理やり手を動かし、なんとか最低限は済ませたと思うけど、もしかしたらやりなおさねばならんかもしれん。やれやれと、その日の午後だけでも何度目かわからないため息をつき、早めの晩飯でも食って気分を変えようと立ち上がったところ、携帯が着信を知らせる。
 弁護士からだ……。

 いや、もしかしたらいい知らせかもしれんぞ。

 自分でもあまりに能天気で無責任に思う、慰めにもならない期待をもてあそばないと、端末を手に取る気にすらない。だが、そんな俺の甘い気持ちは、くるみ割り人形の口に押し込まれた木の実のごとく打ち砕かれた。
「まずいことになりました……」
 ダンディな弁護士が申し訳無さそうに話すの、初めて聞いた。
 先生の話によると、ガソリン凸の垢主は地元でも暴力沙汰を繰り返していたため、ねんのため所轄の警察が訪問したところ、朝から大荒れの垢主をたしなめた長男と殴り合いの末、文字通り叩き出されてしまっていたという。問題は垢主が軽ワゴンに乗って出かけたので、当然ながらガソリンは手元にあるし、車にはポンプと一斗缶が積んであるという。それに、車に乗ってると給油は拒めない……。しかも、ガソリン凸の垢主は車で小1時間ほどの街に住んでいる。
「かなり興奮していたようなんですね」
 いつもは声までダンディだとか、呑気に聞いていられるものだが、いまはその美声が鬱陶しい。とりあえず、警察も人工知能制作者の自宅を警備するが俺とペットロスの女も人工知能制作者の住所が流出していないかどうか、監視を強化してほしいとの要望だった。それも、範囲や単語の一致度を拡大し、細大漏らさず知らせてほしいという。
 もちろん応じるしかないのだが、どれほどの時間と労力が必要か、俺には皆目見当もつかない。
 通話を終え、さっそくペットロスの女へ連絡する。概略を伝えたところ、彼女は思いのほか落ち着いていた。
「もろもろ了解の承知ですにゃ。ところで、ひとつ頼みがあるにゃ」
「おう、この際だからなんでも言ってくれ」
「こっちに来て、お世話をしてほしいにゃ」
「はいぃ?」
完全に予想外だった。思わず変な声まで出てしまう。
「簡単な話にゃ。食事と買物を宅配でなんとかしても、身の回りのあれこれは無理にゃ。それに一緒に考えたり、判断もしてほしいにゃ。そもそも、この状況は家事代行も呼べないし、宅配だってひかえたいにゃ。そして、もんちゃんはあなたの顔と声を知ってる。たぶん怯えて逃げるようなパニックはおこさない」
「ようわかった。じゃ、いまからそっちへ行くよ。買い物とかあったらメッセージください。まぁ、予定のない時期でよかった」
「なに言ってるにゃ? 予定があってもキャンセルにゃ。基本的に、終わるまで一緒にゃよ」
「え、あぁ、まぁ、そうだよなぁ……」
 俺の諦めきった声に、ペットロスの女は諭すような口調で答えた。
「きょにゅうぅ人妻じゃないからちんこはよしよしせんけど、ちちくらいは揉ませてやるから、さっさとこっちへ来るにゃ」

 通話を終えて、即座に荷物をまとめ始める。本当はノート機と電源、マウスにスマホぐらいに留めるのが筋なんだろうが、やはりカメラも持っていく。もちろん、データ吸い出し用のケーブルも。それから、冷蔵庫をざっと見て、生鮮物に野菜、賞味期限がヤバそうなものなど、持っていけそうなものは全部カートへ詰め込んだ。
 撮影会か即売会にでも参加するような重装備で、俺は私鉄の駅へ向かう。日頃はひと駅ぶん歩いてターミナル駅から電車に乗るが、流石にいまはそんな気になれない。むしろ、近所の私鉄駅までですら、道中でかすかに後悔し始めていた。いつものターミナル駅で乗り換え、しばらく乗ってから、こんどは郊外へ向かう中距離電車へ乗り換える。駅の階段をわっせわっせと登って下って、なんとかぎりぎり間に合った。久しぶりのクロスシートだが、楽しんでる余裕はない。ほんの数駅で別の私鉄ターミナルに到着し、そこでまた乗り換え。はじめての駅で大荷物を抱えてうろうろ。案の定、迷ってしまい、接続電車を逃してしまう。次は……やれやれ10分先か。
 洒落たデザインの特急や急行を見送って、ようやく普通列車が動き出す。よく見ると、来た方向とは反対に進んでいる。つまり、行きつ戻りつしてるわけだ。なんだかなぁと、やたら遅い列車の中で、きょう何度目かのため息をついた。
 ようやく目的の駅までたどり着くと、ペットロスの女が教えてくれた大きな踏切と郵便局、そして信金を探す。ひとつしかない改札を出ると、眼の前が大きな踏切だった。
 五叉路?
 六叉路?
 わけがわからなくなるほど複雑な交差点を、鉄道がぶち抜いてる。
 ただ、おかげて見通しはよく、郵便局と信金はすぐ見つかった。その間を道なりにしばらく進むと、目印の床屋が現れる。すでにへとへとだったが、道順だとこの先はまだ長そうで、すっかりうんざりしてしまう。まぁ、自業自得なのだけど。
 床屋の脇から、細い路地へ入る。自転車や植木鉢、ゴミ袋、かつては家具だったらしい木片などが道端を埋め尽くし、通りにくいったらありゃしない。悪戦苦闘しつつカートを引っ張ってると、不意に軽くなる。ナニゴトかと振り返ったら、ランニング短パンの浅黒いお兄さんがカートを持ち上げてくれていた。正直に言うとひったくりじゃないかって、ものすごく警戒したが、すぐに道端の老人が「おい、アルマド、そっとだ、そっと」と声をかけたので、かなり安心する。
 ともあれ、アルマドさんがカートを持ってくれたおかげで、溝やら何やら段差の多いところを楽に進めた。老人とアルマドさんにお礼を言って、ついでに水神様の祠がどこにあるかをたずねる。なぜなら、ペットロスの女が指定した待ち合わせ場所は、路地のどん詰まりにあるはずの水神様なのだ。
 最初にメッセージの道順を読んだときは、できの悪いロールプレイングゲームか、たちの悪い冗談かと思った。
 だが、昼間から薄暗く、日本語がほとんど聞こえない、聞こえたかと思ったら御経を唱える年寄りの声のような、ゴミと御香と香辛料のニオイが溶け合う狭苦しい路地を歩いていると、現実感がどんどん失われていく。そして、老人が教えてくれた通り、ほどなくして水神様の祠がみえてきた。
 携帯を取り出しながら、辺りをうかがう。
 たしかにどん詰まりで、両脇はアパートというのもおこがましいような、古い下宿屋づくりが囲んでいた。ペットロスの女に電話しようと、タッチパネルに指を走らせたところで、なにかの影が目に入る。
「にゃ」
 危うく携帯を落としそうになりながら、声のした方へ顔を向ける。そこには、巨大な白黒ハチワレ猫を抱えたペットロスの女がいた。
「どこいた?」
「いま来たにゃ」
「どこから?」
「そこからにゃ」
 面白くて仕方なさげに微笑むペットロスの女は、ついてきなと言わんばかりに水神様の祠へ顔を向け、そのまま歩きだす。行き止まりじゃないかと思ったが、ペットロスの女は猫とともにふわりと姿を消した。あわてて後を追うと、祠の脇に抜け道があり、ペットロスの女がこちらをみながら笑っている。
「猫の道は猫にゃ」
「にしても、よく見つけたもんだね」
 ペットロスの女はこらえきれないように、猫を抱えて大笑いしだした。
「地元だかんね。このオンボロ長屋も、うす汚い路地も、生まれたときからのお付き合いよ」
「あぁ、だから……でも、不便じゃない? 買い物とか?」
「それがさ、このすぐ裏にバス通りがあって、通り沿いにはスーパーも店もあるし、道を渡ると商店街もあるのよね」
「えぇ? じゃなんでこの道を教えたの?」
 ペットロスの女は『わかんねぇだろうな』と眼差しで語りながら、理由を説明してくれた。
「そっちはものすごい遠回り。駅からだとバスでも10分以上かかるし、本数も少ないからね。結局、近道なのよ。この路地が」
 そう言って、ペットロスの女はすぐ脇の引き戸をカラカラと開け、巨大な白黒ハチワレ猫を中へいれると、俺に向き直って「どうぞどうぞ、汚いところですが、お入りくださいにゃ」と、猫手で招く。文字通りの敷居をまたいで中へ入ると、玄関から続く廊下と階段が見えた。パソコンが入ったリュックにカメラバッグを上がりかまちへおいて、食材などが入ったカートを三和土へ引き込むと、下駄箱の前を塞いでしまった。
「ずいぶん大荷物だにゃぁ。とりあえず2階へ上がってもらおうと思ったけど、カートは想定外だったにゃ」
 ペットロスの女は呆れ顔でカートをつつく。
「いやぁ、家の食材を持ってきたんだよ」
「へ?」
「いやほら、いつまで続くかわかんないからさ、日持ちしないのを持ってきちゃったんだよ。傷んだらもったいないじゃない?」
 うんざりした顔で「わかった、わかった。さっさと出すにゃ。しまえるのはしまっちゃうから」と言うペットロスの女に、俺はカートから半分になったチョリソ、パックのひき肉、玉ねぎ、にんにく、チーズ、トマトに卵などを取り出し、あたりにならべはじめた。最初、ペットロスの女は笑ってみていたが、トマトや卵が出てきたあたりで頭を抱えながら「ねぇ、こっちの冷蔵庫がいっぱいだったら、どうするつもりだったの?」と、つぶやくように訊いた。
「あぁ、それは考えてなかったよ。もしかして、いっぱいなの?」
「あのさ、遠足でもキャンプでもないのよ。だいたい、他人に冷蔵庫をかき回されて、嬉しいわけないじゃない?」
 カートを空っぽにして上を見た俺の目に入ったのは、ペットロスの女が雑に羽織ったワンピースの、腹だか乳だかわからない盛り上がりと、まさしく文字通りの意味で見下している冷ややかな眼差しだけだった。
 とりあえず夕食はオムレツにして卵とひき肉を消費し、残りも早めに料理しちゃうと決め、食材をペットロスの女に任せると、俺は荷物を持って2階へ上がる。それにしても、記憶の中、いや通話でみていたよりもはるかに家が片付いていて、びっくりするくらい荷物が減っている。部屋の隅にはピンクの学習机と、それにはまったく不釣り合いなオフィスチェアがあり、反対側には本棚とたたまれたせんべい布団が見える。
 仕事だけではなく、寝るのもこの部屋なんだろう。まぁ、いくらペットロスの女と俺の付き合いが長いと言っても、あくまで仕事仲間だからな、さすがに同じ部屋で寝られんだろう。いやまてよ、タコ部屋同然のワンルームで寝起きしてたころもあったよなぁとか、そんな思い出をひねりながら、なんとなく本棚をながめる。
 おおかた、薄い本でもびっしり突っ込まれてるのではないかなんて、いささか下卑た期待はあっさり裏切られる。古参の貴腐人とは思えないほどあっさりした本棚には、白バックに生き物の細密画をあしらったコンピュータ関連の技術書や、解き終えたと思わしきパズル雑誌が無造作に突っ込まれているばかりだった。ただ、文字通り手垢にまみれたそれらの本は、インターネットにワクワクするような胡散臭さと、個人の力でもなにか大きな仕事ができそうな夢の香りが立ち込めていた日々の、懐かしい記憶と痛みを呼び起こすには十分だった。
 振り返って学習机をみると、無線ネットワークのアカウントとパスワードを記したメモがある。こういう丁寧さが、ペットロスの女を信用する大きな要素だった。なにはともあれ、ネットに繋がないと始まらない。ノート機を学習机に広げ、コンセントに電源ケーブルをさし、起動させたところへ、ペットロスの女が下から上がってくる。
「呼んでも来ないから、迎えに来たよ」
「あ、ごめん、すぐに降りるよ」
 振り向いて立ち上がろうとした俺に、ペットロスの女はまた座るよううながす。
「いや、ネットに繋ぐんなら、ちょうどいいにゃ。このまま打ち合わせにゃ」
「わかった。それにしても、すっかりきれいに片付けたんだね」
 あたりをみまわしながら、ちょっと大げさに驚いてみせた俺に、ペットロスの女はニヤリと笑って答える。
「いやぁ、処分、処分、断捨離にゃ」
「マジ?」
 思わず素で反応してしまう。そして、目を見開いたまま、言葉が続かない俺に、ペットロスの女は「半分マジ。残りを真面目に答えると、下でモンちゃんといっしょにいたいから、寝室を移したのね。その時ついでにってわけ」と、理由を説明し始めた。
「モンちゃん年寄りだから、ウチの急な階段は上り下りが大変なのよ。そのうえ2階からは屋根にも出られちゃうから、ほんとは階段もフェンスで仕切ってるのよ」
 そんな調子でモンちゃんとの暮らしにどれだけの手間をかけたか、いったん2階へまとめようと思ったが、床が抜けそうなので止めたとか、どれほどのものを処分したとか、ものが減ったらモンちゃんも嬉しそうで、自分もスッキリしたとかひとしきり喋ったあと、ペットロスの女は我に返ったように仕事の説明に移った。それがあんまり自然で、さも処分話の続きのめいていたから、最初の方をすっかり聞き流してしまったほどだ。

 仕事自体は、それほど難しいものではなかった。
 少なくとも、俺に割り振られた作業は、だが。

 ペットロスの女は人工知能制作者のサーバで管理されている人工知能とのやり取りを担当するが、それは学習データや動作の方向性について適切な情報を送信する作業で、本体はあくまでもサーバの人工知能だ。作業の流れとしてはペットロスの女が適宜、人工知能からデータを受け取り、それをもとに修正、あるいは追加データを作成する。俺はそれを人工知能へ送り、データの登録システムを起動させて、正常に終了するかどうか見守る。そういうところだった。

「データの登録は?」
「エクセルのテンプレあるから、それをコンパネから読み込む」
 ほとんど無意識のうちに、俺は微妙な顔になっていた。
「そう、エクセルなのよ。笑っちゃうでしょ? でも、慣れれば気にならなくなる」
 面白くて仕方なさそうなペットロスの女に、俺は「そういうもんなの?」なんて、間抜けな言葉を返してしまう。
「こういうのは、使えるものを使っておくもんだしね」
 わかったようなわからないような言葉は聞き流し、ネットワーク設定や人工知能用学習システムの使い方など教わりながら、あれこれ準備を整えていたらすっかり日が暮れてしまった。いったん休憩にすると、約束通り夕食にオムレツを作って食べ、皿やらフライパンやらを洗っていると、ペットロスの女は風呂にはいるという。
「わかった、じゃあがるまで2階に上がってるよ」
 ペットロスの女は笑いながら「お気づかいありがとにゃ。でも気にしなくていいよ。それより、後で入ったらいいよ。汗臭いし。ね、モンちゃん」なんて、すみに引っ込んだままの大猫に呼びかける。
「こちらこそ、お気づかいありがとう。ただ、タオルも下着もないんだよね」
 ペットロスの女は『あちゃー』と額に手を当て「うわ、呆れた! 食べ物とかカメラなんかよりお泊りセットじゃない? ほんと、そういうとこは相変わらず。まぁ……かわってないから、安心といえば安心なんだけど」と、詠嘆とも説教ともつかない言葉をまき散らす。それから、奥から未使用のタオル類をいくつかもってくると、フェルトペンといっしょに俺の前へならべた。
「これ、あげるから。名前を書いといて。それから、洗濯は完全に別よ」
 それだけいうと、ペットロスの女は風呂場へ姿を消した。

 ペットロスの女が住む家の風呂は古くて狭く、給湯も懐かしいバランス釜だったけど、掃除が行き届いていて気持ちよかった。ペットロスの女はいつもこの湯槽に浸かっているんだなぁと、いささか下卑た妄想も頭をよぎるが、そんなものは頭を洗って流しさる程度の理性も残っていた。

 汗を流してさっぱりしたのもつかの間、泥臭いお仕事が待っていた。
 いや、ペットロスの女が言ったように遠足でもキャンプでもない。
 俺は仕事のため、この家まで来たんだ。
 ペットロスの女が指示するまま、俺は人工知能サーバから必要なデータをダウンロードし、所定の加工を施して再アップロードする。データの更新を確認したうえで、更新処理を開始……終了は5時間後?……思わず振り向いてペットロスの女に『コレデイイノ?』と目線を送る。
「あぁ、まぁ、こんなもんにゃね。小1時間回してエラー吐かなかったら、今夜は寝ていいよ」
 ペットロスの女もこれから仮眠を取って、終わったら処理状況を確認して学習強化された人工知能で作業を進めるそうだ。俺はその処理状況を確認して、さっきのようにダウンロード、加工修正、再アップロード、処理を進めると、そんな具合に役割分担しながら警報システムの精度を上げつつ、状況を監視するのだ。
「朝ご飯の支度もお願いしますね」
 そう言って、ペットロスの女は階下の寝室へ引っ込んだ。
 その後、俺は寝る前に便所へ行こうと階段をおりたら、上から下までフェンスで仕切られている。おいおい、これじゃ用を足すのもひと苦労だなと独りごちたら、廊下の奥でなにかが光った。フェンスを開けずに様子をうかがうと、大きな猫がのそのそと引っ込んでいく。
 モンちゃんだ。
 これは、ほんとにトイレへ行くのも大騒動だなと、大きなため息をついた。

 翌朝から仕事が本格化する。とはいえ、あくまでも主力はペットロスの女で、俺は下働きの雑用係でしかない。もちろん、俺は最初からそのつもりだったし、ペットロスの女をサポートするのはむしろ嬉しくもあった。
 出会った頃、やさぐれてやけっぱちなところに惹かれたけど、それがすっかり影を潜めてしまっていた。そんな彼女の変化に、寂しさを感じないといえば嘘になる。しかし、それでも先代猫シフォンが行方をくらまし、半狂乱になって大探しした末、カラスについばまれていた亡骸をみつけたときいたとき、そしてそれからの落ち込みようを知っているだけに、元気にパソコンをいじりながら無愛想な大猫をあやしてる姿をみるたび、本当に心からホッとした。そして、喜ばしく、頼もしくも感じていたのだ。
 ともあれ、俺とペットロスの女はそれぞれの仕事をこなし、どこから手を付けたらよいのかわからないほど曖昧な条件を少しずつ少しずつ絞り込んで、作業に着手してから2日か3日過ぎた頃には、なんとなく先が見えてきたような、そんな感じがしてきていた。

 そんな日の夕方近く、そろそろ夕食の支度に取り掛かろうかという頃合いに、俺の携帯が着信を知らせた。
 そして、電話を切った俺は、ペットロスの女に「仕事はおしまい。ガゾリンおじさんは捕まってたんだって」とだけ、できるだけ感情を込めずに伝えた。
「あら、ほんと! よかった! お祝いしなきゃ!」
 思いのほか無邪気に喜ぶペットロスの女に、俺はガソリンおじさんが弁護士事務所へ電凸した日の夜、つまり俺が最初に風呂を借りて下卑た妄想をもてあそんでいたころ、すでに当人は檻の中だったという、徒労感あふれる話をしようかすまいか、すこし考え込んでしまった。まぁ、こういうのは隠すとろくでもないわざわいを招くものだし、結局その話をしたのだけれど、ペットロスの女は大笑いしながら「なんで? 無駄でもなんでもないじゃない。こういうきっかけがなかったら、絶対こんなに集中してフィルタリングしてなかったし、あなたも人工知能のコンパネをいじらなかったでしょ? すっごくいい経験させてもらったと思う。むしろ感謝したいくらいよ」と言って、ちょっと意味ありげな眼差しを俺に押しつける。
「あぁ、うん、まぁ、たしかにそうだね」
 俺は曖昧に同意しながら、否定的な感情、それも徒労とか無力の共感を『遠回しに求めて滑る』悪癖は、自分でもなんとかならんもんやろかと、ついつい目元が渋くなってしまう。おまけに、ペットロスの女は「そうね、ただ、あなたにはデートの約束とか、キャンセルさせちゃったみたいだし、ちょっと残念だったかもね」なんて、やたら嬉しそうにあおってくる。
 俺は『まさか』と思いながらも、自分を抑えられずに、つい期待を込めた眼差しをペットロスの女へ投げてしまう。彼女はつと立ち上がってモンちゃんを抱き上げると「あなたが考えてるような感情は持ち合わせていないし、すくなくともあなたにはまったく感じない。でも、これで良いのよ」と、まっすぐに俺の目を見て言う。
 そして、気恥ずかしさに耐えきれず、目をそらした俺を、抱えた巨大な白黒ハチワレとふたりで、いやひとりといっぴきで面白そうにながめながら、ペットロスの女はさらに続けた。
「ただ、人生の優先順位が違うなってね。私は人工知能のチューニングが面白くて仕方ないし、そしてモンちゃんとの暮らしを大事にしたい。あなたは食べ物とカメラと、そしてオトモダチのきょにゅぅぅ人妻ってところかな? それだけの話にゃ。ほんと、こんかいはいい経験させてもらったし、巻き込んじゃって悪かったとも思うけど、あなたにとっても悪い経験じゃなかったと思うにゃよ。ねぇ、モンちゃん」
 そういいながら、むずがり始めたハチワレ猫をそっとおろし、ペットロスの女は「今夜はお祝いにゃ! 悪いけど、お寿司とビールを買ってきて。私のおごりにゃ!」と、両手を突き上げた。

 水神様の祠とは反対側のバス通りにでて、少し歩くとペットロスの女が言っていた酒屋と、隣に寿司屋とも魚屋とも居酒屋ともつかない店がある。俺は酒屋でビール券を使い、隣で店の前に出ているワゴンから特上握りと鉄火巻とイワシのにぎりを買った。ペットロスの女は少食だが、このくらいならふたりでなんとかなるだろう。鰯のにぎりは好き嫌いが分かれるけど、もしペットロスの女が苦手だったら俺が引き受ければいいさ。
 それにしても、ビール券と大瓶を交換するなんて、いったいなん年ぶりだろう。
 瓶の重さを感じながら。俺はペットロスの女とモンちゃんが待つボロ家へ急いだ。

 にゃぉにゃぉにゃぁん

 ボロ家の引き戸を開けた瞬間、日頃のもっさい動きが嘘のように、モンちゃんが元気よく駆け寄ってくる。
「だめよ! モンちゃん! 待って!」
 慌てて引き戸を閉め、振り向いた瞬間、上がりかまちにおいた寿司へ食いつこうとしたモンちゃんを、間一髪抱きしめるペットロスの女がみえた。
「モンちゃん、モンちゃん、あれはからだに毒よ。人間の食べ物だからね。毒よ。毒」
 そこまで毒毒言わんでもと思わなくはなかったが、確かに老猫に寿司は毒かもしれん。「とりあえず、全部2階へ持って上がって。すぐに」
 ペットロスの女が急かすまでもなく、俺は寿司とビールをひっつかんで階段を上がり、猫よけのフェンスを閉めていた。やれやれ、モンちゃんは年寄りだけど、食い意地ははってるようだ。いや、食欲があるのは悪くない。むしろ健康の証なのだろうけど、こういうときは困っちゃうなぁ。
 そんな、どうでもいい考えにふけっていると、ペットロスの女がフェンスを開け、階段を登る気配がする。
「おつかれさまぁ」
 コップに小皿、お箸、栓抜きなどを所狭しとのせたお盆を器用に捧げ持ち、ペットロスの女は嬉しそうに微笑んでいる。
「モンちゃんは?」
「大丈夫、少しあやしたら寝ちゃった。年寄りだから、興奮するとすぐに疲れちゃうみたい」
「あぁ、それならよかった」
「私が出かけると買い物ってわかっちゃうから、わざわざあなたに行ってもらったんだけど、やっぱりだめというか、目ざといわねぇ。食べ物ってわかっちゃうみたい」
 ペットロスの女は意味ありげな眼差しでニヤリと笑う。まぁ、なにを言わんとするのかはわかるけど、ここは反応せずに流すのが大人だろう。
「さぁ、たべましょう」
 小さな折りたたみ机はお寿司やあん肝、小鉢でいっぱい。不揃いなグラスとビールはお盆へ逃がし、注意深く注ぐとささやかな宴が始まる。
「乾杯!」
「かんぱぁい!」
 ぬるいビールがものすごく美味しい。ペットロスの女も同じようで、ひと息に飲み干したと思ったら、すぐに2杯目を注ぎ始める。そんな彼女を横目に、俺は寿司のパックを開け、小皿に醤油を入れた。
「お、やった! イワシ握りにゃ! きょうはあったのね、大好き!」
「よかった。苦手だったらどうしようかと思ったんだけど、買ってよかった」
「苦手なわけ無いにゃ。あの店でいちばん美味いのが、これにゃ」
 言いながら、ペットロスの女はひょいと箸を伸ばし、イワシの握りをぱくついた。
「おいひいにゃ。ひあわへにゃ」
 幸せそのものの笑顔を振りまきながら、ペットロスの女はビールを飲み干し、さらにもうひとつイワシの握りつまむ。
 まずい、このままでは俺の分がなくなる。
 あわてて箸を伸ばし、口へ放り込んだら……あぁっ! これは、うまい……うまい!
 本当に新鮮なイワシだ。脂の甘味を感じる。切り方も握り方もうまい。口当たりも歯ごたえもよく、飲み込むのがもったいないくらい。欲を言えば塩辛い醤油ではなく、九州あたりのネットリした甘口の醤油で食べたかったけど、それはあまりにも贅沢というものだろう。
 味わっている間にも、イワシの握りはどんどん減っている。できればもう一貫か、できれば二貫たべたかったけど、心底から嬉しそうなペットロスの女を観ると、ゆずるほうが正解な気もしてくる。それに、彼女のおごりだしな。
 仕方なくと言うとすごく失礼だけど、こんどは特上寿司へ箸を伸ばす。
 特上と言ってもイカ、タコ、エビに中トロ、赤身、ハマチあたりはほかと代わり映えしない。もしかしたら大トロとイクラが特上要素なのかな? そういえば玉子がやけに立派で、コハダはちょっと珍しいなんて、思いっきり迷い箸ふらふら。
「にゃ! ちょっと待って!」
 ペットロスの女は手酌のビールを一気にあおり、俺の箸を止める。
「よかったらコハダと玉をゆずってほしいにゃ。ほかは全部食べていいにゃ。鉄火巻きも食べていいにゃ」
「いいけど、なんで?」
「マグロはあまり好きじゃないにゃ」
「わかった、それでいいけど、イワシの握りをくださいな」
 最後の一貫へ目線を送りながら言うと、ペットロスの女はちょっと黙った挙げ句「やっぱ、食べたい?」なんてぬかしやがった。
 そこまで言われると、もはやゆずるしかない。
「いや、いいよ。食べて」
 手のひらを返してうながすと、ペットロスの女はこの世の幸せをすべて手に入れたかのような、あたかも望月の歌を詠んだ道長か、利休と並んで大茶会を催した秀吉のごとき満ち足りた笑みを浮かべ、最後のイワシ握りを口へ運ぶ。
 大満足の体でもう1本のビールも栓を抜き、手酌であおり始めたペットロスの女をみながら、俺はマグロの赤身に箸をつけた。たしかに悪くはない。むしろ美味しい方だと思うし、このしょっぱい醤油にはマグロがふさわしいと思う。だが……しかし、イワシのほうが美味いのもまた、事実だ。もしかしたら、鉄火のほうがイケるのではと思って、きっちり丁寧に巻かれた細巻きを口に放り込む。
 あたり!
 鉄火巻の引き締まった感じと海苔の香りが素晴らしい。これはこれで美味いなと思いながらも、同時に歌舞伎なら一枚看板、アイドルならセンターを務めるであろう大トロへの期待が、嫌な不安へと変わっていく。まるでセミファイナルの試合が盛り上がりすぎて、メインイベントが微妙な空気に包まれてしまったアリーナのような、心のざわつきが抑えられない。
 だが、すっかり常温に戻っているビールを口に含み、ホップの苦みと炭酸の舌触りで変に盛り上がってしまった心を落ち着かせると、エビはやたらに大きく厚くプリプリしていて、タコも臙脂と言うよりはボルドーに近いつややかな色合いでハリもあり、ネタの良さを静かに誇示しているのが見て取れた。
 大丈夫。みんないい仕事をしてくれる。それに、なにかあっても最後は鉄火がしめてくれる。
 自分に言い聞かせながら、ひとつ、ひとつ、穏やかな気持で味わっていくと、いまだかつて経験のない、特上寿司のまばゆい世界が極彩色の音色とともに広がり、自然と顔もほころんでいった。
「ほんま、美味しいね。ほかもイイよ」
「らしいね。でも、私がその中でいちばん好きなのはコハダ、お酢の味わいがほんとにいいの。その次が玉」
 言いながら、ペットロスの女はそれぞれをイワシの握りがあったトレーへ移し替える。つくづく光り物が好きなんだなと半ば感心しながら、俺はハマチを頬張る。やはりこういうのは甘い醤油がいいんじゃないかとか、わざとらしくもっともらしいなにかを頭に浮かべ、来たるべき中トロ大トロの登場から気をそらそうと、虚しい努力を重ねていた。
 しかし、そのハマチを食べてしまえば、残るは中トロ大トロの二貫のみ。
 腹をくくって中トロに箸をつける。
 美味い! よかった! ちゃんとおいしい。
 まぁ、あえて言えば意外性のない無難な美味しさだけど、そもそも中トロってのは地味に安定して美味しいものだよな。というわけで、いよいよ大トロに箸を伸ばす。
 あんまり後回しにしたものだから、脂が流れ始めてるような気もしなくはないけど、そのくどそうな鈍い輝きが、すでにすし詰め状態の胃袋に隙間を開け、食欲をそそったりもする。
 さて、食べるぞ。
 あ、おいしい。それも、すごくおいしい! 醤油との相性もバッチリ。脂の甘味を優しく流す、わさびのすっと抜ける感じもいい。肉厚で食べごたえもある。こんなにおいしい大トロは、生まれて初めてかもしれない!
 でも……。
 なにか、なにかが、たりない。
 いや、いいんだ。
 このくらいで。
 ちゃんとゴージャスにフィナーレを飾ってくれた。
 スターは客席に深々と頭を下げ、後はアンコールの鉄火たちにお任せして、静かに重々しく舞台袖へ引っ込んでいく。それでいいんだ。

 俺はグラスの底に残ったビールを飲み干し、鉄火巻きをちびちびつまむ。
 実に美味しいいお寿司だった。その余韻にふけるには、このくらいがちょうどいい。

 ふたりで寿司を食べつくし、ビールを飲み干した頃には、すっかり日が暮れていた。俺とペットロスの女はふたりで食器を片付けていると、白黒ハチワレのまんまる頭がひょいと現れ、ペットロスの女にすり寄ろうとしたが、ふんふんとあたりのニオイをかぎ、またすっと戻っていった。
「お皿を片付けたらシャワーにするにゃ」
「え、なんで?」
 藪から棒になに言うのかと、つい間抜けな問いを口にしてしまう。
「モンちゃん、お酒のニオイが嫌いなの。だから、飲んだ後はいつもすぐシャワー」
 へぇ、そうなんだと雑に返していたら、ペットロスの女は「あなたも浴びるにゃ。汗を流してさっぱりするにゃ」なんて言い始める。
「いやぁ、きょうはもう帰るし、遠慮しとくよ」
 正直なところ、用済みならさっさと帰って家のあれこれをしたかったし、ほとんどまともに連絡が取れてないオトモダチが気にならないといえば、それはまったくの嘘だった。しかし、ペットロスの女は「いやぁ、顔が真っ赤だしさ、いまから帰るのは危ないよ。夜道は足元悪いし、バスもそろそろなくなるし」と、なんだか妙に食い下がる。
「ほんとは上で横になってっていいたいんだけど、モンちゃんが嫌うからさ、お酒のニオイは落としてほしいのよ」
「でもさ、いまからだと、遅くなっちゃうよ」
 これはなにかを期待していいのか?
 ふっと、そんな考えも頭をよぎる。
 とはいえ、もしもそんな夢のような展開があったとしても、やはり帰りたかった。しかし、俺は最後の皿をペットロスの女に渡して、荷物を取りに行こうと歩き出した瞬間、情けなくも膝の力が抜け、ふらふらとへたり込んでしまった。
「ほら、今夜は休んでいくにゃ」
 ペットロスの女はそう言ってタオルをつかみ、風呂場へ向かう。
 俺はただうなずくしかなかった。

 アルコールが残っている体で湯船に浸かるのは危ないと、ペットロスの女はシャワーだけ浴びたそうだ。風呂場から出た彼女は、タンクトップ姿で豊満すぎる身体を誇示しながら、俺にもさっさとシャワーを浴びろとせっつく。俺は目のやり場に困りながら、タオルをもって風呂場へ向かった。
 バランス釜のシャワーは水圧が低くて湯量も少なく、おまけに湯音も安定しない、本当におまけのような、掃除にしか使えないような代物だったが、それでも汗を流して酒のニオイを消すだけのはたらきはしてくれた。

 風呂場から出ると、ペットロスの女は扇風機に顔を寄せ、そばに寝転ぶのモンちゃんに「わぁれぇわぁれぇわぁ」なんて、通じるはずもないネタを振っていた。俺に気がついたペットロスの女は「モンちゃんは人間の言葉がわかるのよ」なんて、反応に困る話を始める。
「せやかて扇風機ネタわらんやろ?」
「いいえ、わかりますにゃ! ねぇ、モンちゃん」
 きっぱりと言いきったペットロスの女に答えるかのごとく、モンちゃんは大きなあくびをした。そして、つきあいきれんと言いたげにのそりと起き上がり、部屋の隅に陣取るかまくら型の寝床へ姿を消す。
「モンちゃん呆れてたよ」
「照れてるのよ」
「そうかなぁ?」
 俺にはモンちゃんが照れるなんて想像もつかないが、まぁペットロスの女が言うのだから、そうなのだろう。すくなくとも、猫のことで彼女に異を唱えるなんて、そんな蛮勇は持ち合わせていない。
 さて、どうしようか?
 寝るにはまだ早いが、完全に酔いが冷めたとも言い難い。まだ、どこかに酒が残っているような、そんなだるけを感じる。どうやら、ペットロスの女もまだ酔いが残っているらしく、モンちゃんが引っ込んだ後も扇風機の前であぐらをかいたまだった。
 俺はぼんやりと立ったまま、あがって二階でネットでもみようか、とはいえどうせろくなものはないし、頭が悪くなるようなゴミ情報でイライラするくらいなら、ここでごろ寝でもさせてもらおうか。
 あぁ、そういえば天気はどうなんだろう? 帰りが雨は嫌だし、天気が良くなるまで居候させてもくれそうだけど、それは俺のほうが困る。
 そんなどうでもいい考えにふけっていたら、不意にペットロスの女がこちらへ向き直ったので、はやくも薄っすらと汗ばんだ胸の谷間をもろにみてしまう。やばいと思うが、ついつい目線が惹きつけられ、なかなかそらせない。
「揉む?」
「え? あ、いや……」
「乳にゃ。揉ませてあげるって言ったにゃ。それにしても、好きなのは知ってたけど、ガン見しすぎにゃ」
「すんません」
「で、揉むの? 揉まないの?」
「揉みたいです」
 いい年したおっさんが、こんな童貞臭いセリフを吐くのもどうかと思った。
 が、己の欲望には勝てない。
 どれだけ齢を重ねても、たぶん、死ぬまで勝てない。
 俺は、ね。
 ペットロスの女と向き合って座ると、彼女は無造作にタンクトップをめくり、大きな乳房をどんとだした。汗にギラつく乳房はあまりにも生々しく、そして肉の重々しさを感じさせる。実際には脂肪の塊で、腐れ縁の女友達はよく浮かせて面白がっていたが、ペットロスの女がさらす乳房は、大きく濃い鳶色の乳輪とともに、なにかメタリックな、触ったら弾き返されそうなきらめきが、重量と存在を誇示していた。
「さ、触るね」
 かつて妙に流行した筆下ろし映画のセリフみたいな言葉が、ほとんど初老の域に達した男の口からこぼれ落ちる。だが、ペットロスの女は穏やかな苦笑で、それを軽く流してくれた。
 俺はそっと手を伸ばし、破壊的な量感の乳房を下から持ち上げる。指先にずっしりと肉の重さが乗り、柔らかくもハリのある皮膚は、うっすら汗ばんでいた。手のひらに乳を乗せ、重さを楽しみながら、親指で乳輪から乳首を揉むように撫でる。だんだんと膨らみ始める感触に気を良くした俺は、ゆっくりと親指に力を込め、リズミカルに揉み始めた。
 もう少し、もう少し手のひらと指と、全体で感触を楽しみたい。
 そう思って指へ力を込めた瞬間、ペットロスの女はこらえきれないように大笑いし始めた。
「ぶっぶふふふふ! ごめん! もう限界にゃ」
 ペットロスの女が大笑いすると、彼女の巨大な乳房はぶるんぶるん震え、俺の手を弾き飛ばした。
「あ、ごめん。いじりすぎた?」
「それもあるけど、なんか手つきがモンちゃんっぽいし、悪いけどあなたの顔もアホっぽくて、それまたモンちゃんっぽいのよ。ぶぶぶぶぶ、ぶふふふ、ははは!」
 ペットロスの女は床をバシバシ叩きながら笑い転げ、おれはただ呆然と見守るばかり。もちろん、乳を揉むどころではない。
 それにしても、モンちゃんと同じかぁ……同じ顔かぁ……どんな顔なんだろう?
「もしかして、モンちゃん乳揉むの?」
 ウカツ!
 ペットロスの女にネコとアニメとゲームとマンガとボーイズラブの話をさせたら最後、めちゃめちゃ長くなる、しかも要領をないのは嫌というほどわかっていたが、わかっていたはず。
 なのだが、つい忘れてしまっていた。
 好奇心はネコならぬ、俺を殺す。
 もちろん、ペットロスの女は大喜びで身振り手振りを交えながら、自分の乳を揉み、乳首を弄りながら、モンちゃんがどのようにして乳を揉むのか、乳を揉むようになってからどれほど絆が深まったのか、ものすごいハイテンションで話し始める。よく考えれば、それはとてもみだらでエロティックな光景だろうが、時折はさまるモンちゃんの顔真似があまりに滑稽で、不条理コントとしか思えない。
 気がつけば、かすかに抱いていたエロティックな交わりへの期待など、土台から根こそぎ吹き飛ばされてしまっていた。

 ペットロスの女が話したいだけ話して満足したころには、すっかり夜も更けていた。そろそろ寝ようかと思ったが、ペットロスの女はコーヒーを飲もうといい始める。まぁ、あれだけ好き放題に喋れば、のどもかわくだろうと思う。寝る前にコーヒーはどうかと思わなくもなかったが、俺もご相伴にあずかってインスタントコーヒーを入れてもらう。
「夜でも大丈夫にゃ、ノンカフェインだから」
 なんて言いながら、ネコ柄のマグカップを持ってくる。ミルクたっぷりのノンカフェインコーヒーをちびちびすすり、まだトップレスのままだったペットロスの女をぼんやりみていた。
「あはは、ほんとに乳好きね。でも、きょうはもうおしまい」
 そう言って、ペットロスの女はタンクトップの上だけみたいな下着を身につける。
「そうそう、このナイトブラ、高かったんだけどすごくいいのね。なにがいかって、肩こりが軽くなったのよ」
 なにがどうよかったのか、興味がまったくないわけではなかったが、ここで食いついてしまうとまたどれだけ話を聞かされるか、わかったものではない。俺はただ、うなずきながらコーヒーをすすって『それはよかったね』と、微笑むだけにした。
 ペットロスの女は嬉しそうにブラの下から大きな乳房を持ち上げていたが、ふとなにかに気がついたらしい。
「そだ、肩をもんであげようか?」
 なんて、唐突にいい始めた。
「ありがとう。お願いしたいな。でも、いきなり、なんで?」
「さっき、揉ませてあげなかったから、埋め合わせにもみもみしてあげるにゃ」
 おおかたそういうことだろうと思っていたし、ナイトブラをした段階でもう揉めないとわかっていたが、それでも全く残念ではないかといえば、それは嘘でしかない。とはいえ選択の余地がないのもまた、確かだった。
 俺はシャツを脱いでその場に横たわり、クッションを額にあてがって伏せた。
 しばらくして、ペットロスの女が隣にしゃがみ込む気配がすると、背中にオイルが垂らされ、とこからともなく良い香りがただよいはじめた。おいおい、ずいぶん本格的だなと思ったら、背中に柔らかい手のひらが乗り、グイと力が入る。これ、素人の手つきじゃないよなと、どこで習ったんだろうかと、そんな考えを巡らせ始めたところで、俺は眠りに落ちてしまう。

 乳首に違和感がある。
 ケモノの匂いがする。
 腹の上になにか乗る。
 ずっしりひどく重い。

 振り払おうとしたら、乳首に激痛が走った!

 イテッ!

 起き上がると、腹の上から大きな塊が落ちて、どこかへ去っていく。

 モ、モンちゃん?

 次に目が覚めたときは、すっかり明るくなっていた。
 どことなく、身体が軽いような気もする。
 それにしても、夜の出来事は何だったのか?
 モンちゃんだったのか?
 もしかしたら、俺の雄っパイをもみにきたのだろうか?
 そうだったら、ちょっと顔を見たかったな。
 考えても答えは出ず、そしてペットロスの女に話す気にもなれず、俺は挨拶をすると荷物をまとめ、家路についた。
 帰ったら、とりあえず腐れ縁の女友達と、そして最近ちょくちょくあっている猫っぽい娘にメッセージを飛ばそう。運が良ければ、すぐに会えるかもしれない。

 ただ、その時の俺は想像もつかなかったのだが、この事件をきっかけにペットロスの女は人工知能制作者の事業へ本格的に参加し、やがてSIEM(Security information and event management)やSOAR(Security Orchestration, Automation and Response)、はたまたEDR(Endpoint Detection and Response)といった情報セキュリティマネジメントシステム深く関わっていく。
 だが、それはまた別の話なのだった。

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