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作品ステートメント

連作写真自画像
みる、みてる、みられる
ver, estar viendo, ser visto
to see, to be seeing, to be seen

作品ステートメント
美術の歴史において、自画像は極めて大きな位置を占めています。それは写真においても同様で、アメリカのロバート・コーネリアス(Robert Cornelius 1809-1893)が、ダゲレオタイプの発表からわずか2ヶ月ほどの1839年10月ごろに自画像写真を撮影しています。つまり、自画像は写真の歴史とともにあったと言えましょう。
またセルフポートレートは、しばしば写真表現に大きな衝撃と変化をもたらしました。そして、その中には20世紀後半のシンディ・シャーマン(Cindy Sherman 1954-)や森村泰昌(Yasumasa Morimura 1951-)から、今世紀の澤田知子(Tomoko Sawada 1977-)などに代表される、ひとつの大きな流れがあります。
それらは、作家自身の日常から大きく変容した、あるいは微妙に異なる姿かたちで当人を撮影し、自己を客観的に再確認する、あるいは社会における自己の位置を探り、問いかける試みとしての作品でした。さらに、自分はその流れに連なる作品群に共通するもうひとつの特徴に、みられる、まなざされる、つまり客体としての自画像との要素があるのではないかと考えます。ただし、作家が自己を客体視する意味合いから、それは必然だろうとも思います。
とはいえ、自動撮影された澤田知子の『ID 400』も含めて、写真表現とは基本的に作家がみた、まなざしたなにものかを撮影した結果から生まれるものです。
自分は、本作品においてカメラを構えた姿で自画像を撮影し、みる、まなざす存在と、みられる、まなざされる存在の両面性、入れ子構造の表現を試みています。また、その両面性と入れ子構造を鮮明にするため、反射あるいは透過した光景の非現実性、超現実的な印象を取り入れつつ、モノクロームで表現しています。
それは、澤田知子がインタビューで語った「内面と外面の関係」(2004年6月 美術手帖850号 美術出版社)をさらに発展、強化する試みでもあります。

多くの人々が自身の精神的平穏を求め、プライバシーの確保を過剰なほど訴える現代社会において、大きなデジタルカメラを構えた人物の姿は、どのように受け止められるでしょうか?
その姿がもたらすかもしれない不安、不穏な空気も含め、作品を通じて問いかけたいと思います。

¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!