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感じるもの全て使って

分かってはいたものの、
noteを放置して半年。

色々なSNSをやっていると発信内容が似通う。

そうすると、なんとなく遠ざかるnote
という言い訳。。。

自分のタイミング、自分の感覚でいいのに。
誰かに求められている訳でも、仕事でもない。

ただ、最近変化している。

私としては今までと発信内容は変わっていないつもり。

出会う人もどんどん新しい人、刺激をいただく方ばかり

何にも変わっていないつもりだったけれど、
どうやら変化している。

自分が強く「受け取って!!」みたいに思ったものは
案外受け取ってもらえなかったりする。

ただ今、その瞬間に思ったことを書き連ねた取り止めもないものが
何故か誰かの心に響いていたりする

不意に
「あなたの言葉は美しい」と言われた

それは私にとって驚きであったが、考えみたら
私の血縁や周りの人はみんな言葉が美しい

そういう環境下で育ってきたことが幸せなことだったと
今更知った

使う言葉で世界は変わる
それは良くも悪くも

だからと言っていつも意識して使っている訳ではない

ただ、私に絶大な影響を与えた両親は
「よく喋り、情に溢れて愛を教えてくれた母」と
「寡黙だが、居るだけで安心感をくれる父」が

どちらも違った形の表現で、愛を注いでくれていたのだと
よく分かる

兄たちも全く違う表現をくれた
口うるさい感じでいた上の兄も、
今は言葉下手でも一生懸命に私に伝えたい想いを届けようとしてるのが
よく分かる

冷静な下の兄は
ちょっと視点の違う愛情表現をくれる
これも愛情なんだと教わる

どうも私は、周りの人を通して
自分が如何に恵まれた環境で育ち、今も恵まれていることを
思い知らされる人生を歩んでいるらしい

私を作る一つ一つの細胞が
全てを愛して全てを満たしてくれている

人からしたら小さなこと、気にもしないことを
私は体感し、表現していきたい

ずっと言葉で表現してきて
言葉で表現することが苦手な人が作品を作っていると
思い込んできた

でもそれは違った

「表現の違い」が作品となっているだけ

受け取ってくださる方がいるから産むのではなく
今、この瞬間の私の想いが溢れたら
作品がどんどん産まれていく

自分から産まれた子どもたちから
日々教わる

言葉にするからすごい訳でも
言葉にできないからすごい訳でもない

表現も自由
それぞれの表現を感じられる自分でいる

見える世界がどんどん変化しているなぁ


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