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2021.04.07

ごみのような夢を見た。
2021年年始「あけましておめでとうLINE」を見越して、ブロックにて縁を切った「元・友人」が、いままで成し遂げたことを延々と自慢するーーという、最悪な夢だ。

さて、この話が共感を獲得するためには、元・友人たる「彼女」が、どんな人間だったかを説明しなくてはならないだろう。

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彼女は顔がいいのと歌がうまいのとで、ピアノ弾き語りのアーティストとして活動している。

縁を切ったもっとも大きな理由は、彼女と関わると私の感情が「「「無」」」になるから。
彼女としゃべると、感情がおしまいになる。

会って話した後の「時間をむだにした」という感じ。彼女の成功を呪い、失敗をあざける「いやな感情」の突出。自己の大事な部分が汚されたような「喪失感」。

どうですかみなさん。性格のすぐれたみなさんは、決してそんな気分になることはありませんか?

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ところで私は、成功者の人生をうらやみ、自己の矮小な人生と比較しあけくれる、というたぐいの人間では必ずしもないと言い訳をさせてほしい。

私の身の回りにいる、自己表現に成功した友人に対しては、このように極端な感情へと陥ることはあまりないはずだ。
尊敬する友人は、私に対して、尊敬の念とほどよい前進力を与えてくれる。

彼女からは、それらをくみ取ることはできなかった。

彼女から受け取ったもの。嫉妬と落胆。
または、あるいは、電車に同乗したヒプノシスマイク好きのオタク中学生が、友人同士でラップバトルを繰り広げている場面に遭遇したときの居心地の悪さ--おおむね、そのようなものだけだ。

まあそれだけなら生ぬるい友情に身を湛えていることもできたでしょうが、ありがたいことに、安寧のときというのは長く続かない。

彼女から発せられた一言は決定的だった。
「なんであんたにアー写撮ってもらうのに、お金を払わなきゃいけないの?」。

友人であろうと、仕事をした人には対等の報酬を支払うという思考回路の欠如。
およそ音楽という「かたちのないモノ」に重きを置いた人生を歩んできたとは思えない発言に、あ、き~めた!縁切ろ!と思ったってわけです。

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それだけならいい、すべて。自分の力でいやなものを排除する。それだけで人生はけっこううまくいく。

高校生んときに「ばっくれたりしてるとサボり癖がつくからよくない」と言っていたバイトリーダーのことばは、信じなくていい類のものである。

本当は、逃げるという行為を己の責任として受け止める技量があるかどうかという、ごく個人的な問題なのである。
だからマックのバイトはばっくれた。

しかし、今回に限り、そうは問屋がおろさない。

今もなお苦しいのは、どうやら私は彼女自身がアーティストとしてチヤホヤされていることが許せないらしい、ということ。
うっかり彼女の現状を知ったり、なんらかのイベントで彼女の名を見ようものなら、私はすべて間違っている……という自己嫌悪がよぎるのだ、愚かしくも。

この感情が無益すぎてウケる。かなりダルい。

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たぶんおそらく、いちばん私がいやだな~って思ってるものに、いちばん私が向き合いたくない事実ってものに、心当たりが、ないではないです。

それは、「彼女の顔がズルいくらい“““良い”””」てことなのだ。
なんだかぜんぜん認めたくないんだけど、情けなきルッキズムの権化ですね、私は。

学生時代彼女の顔が良すぎるあまり、そばにいる私はめちゃめちゃ割に食わない挫折を強いられてきた。

前述の「いやな感情にさせること」は、私が内包したルッキズムが、過度に私の自己顕示欲を刺激し、どうしようもない無力感に貶められる結果なのだろう。

そう考えると彼女はけっこうよくやってくれていた。

私の好きなものを逐一聞き出し、「見たよ」「聴いたよ」「よかったよ」と機嫌をとるようにこころみる。
彼女に欠点があるとするならば、人の内面に忖度するという行為に対して、「隠喩する」という美意識があまりにも杜撰なところだった。

愚直に、「仲間です」とアピールする。思えばそれは、顔が良すぎて嫌われ続けた彼女の、彼女なりの処世術だったのかもしれない。

まあ、そういう態度がなおのこと居心地の悪さを冗長させるのですが。
顔がハイパーつよいということは、必ずしも1UPキノコではないのかもしれません。

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あらためて考えてみると、彼女が私に与えるパワーにおける「顔がつよい」の割合は、ほとんど9割を占める。
あとの1割は「まあまあ歌がうまい」というところか。

彼女の性格というのは、少なくとも私に対しては、まったくといっていいほど促進力を与えるものではありませんでした。

ただ、彼女としゃべるために感じる「彼女の御心がわからないのは、私の顔が悪くて嫉妬しているからだ」という叱咤。
これがルッキズムの抑圧でなくて、なんなのでしょうか。

そう考えるとこのモヤモヤは、そんなに難しい話ではなくなってくる。

要点は2つだ。

①私は無用のルッキズムにさいなまれている。
②彼女と私は「合わない」。

彼女と過ごした時間において「おもしろい」「たのしい」という感情を思い出すことができないのは、私と彼女があまり「合わな」かったからなのだろう。
顔がいいことへの嫉妬とないまぜになって、シンプルな結論が導けなくなっていた。

私の顔が悪いという自己認識を、拡大した他人へと投影すること。これが、今回の件で私を苦しめていた根源である。
無益なルッキズムの破片からは、ゆっくり抜け出していくことにする。これは今年の目標。それからとりあえず8kgやせよ、きめました。

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ルッキズムのわるいところは、顔のよい人を崇めるというところではなく、顔のわるい自分を不毛に貶めるというところにある。

ひさしぶりにまとまった文章を書いたな。
彼女の存在が、不思議な原動力になってくれました。いま、はじめて、惜しみない感謝をいだいています。ありがとう、Kさん。さよなら。

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