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サブカル大蔵経961藤田宏達校訂『THE LARGER AND SMALLER SUKHĀ VATĪVYŪHA SŪTRAS』(法蔵館)

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サンスクリット語原典の『無量寿経』と『阿弥陀経』をインドの文字デーヴァナーガリーからローマナイズして分節化された藤田先生の著作を久々開いてみました。

これを基にした翻訳書が、前回ご紹介した『梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経』です。

日本の宗派仏教において、サンスクリット原典というのは、知的遊戯の一種のように思われている気がしています。祖師たちがサンスクリット原典を読んでいないから、信者も祖師が読んだ漢訳を読めばいいと。〈サブカルとしての仏典〉のような扱い。

しかし、昨今の近代仏教研究により、江戸から明治にかけて真宗僧侶の中でも悉曇研究や欧州留学による梵語研究は進められていたことがわかりました。その時代より今は鈍化しているように思われます。

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本書を開くと、まず、さまざまな異本の対応表など膨大な書誌学情報が続きます。〈世界の藤田〉〈世界で一番無量寿経に詳しい人〉と学生の頃聞いた異名が蘇ってきました。

本文をめくります。30年ぶりに辞書なしでサンスクリットを読んでみます。

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まず、ローマ字化されたテキストと単語間の空白に安堵感を覚えます。

この「amitaprabha」から始まる韻文が『讃仏偈』の箇所だと思います。(p.10)

サンスクリットは単語の語尾変化で主語や修飾語を判断するので、その判別がつかないと読めないのですが、「amitaprabha」の語尾が「a」なのは、たしか〈呼格〉なので、アミタプラバさまよ!と呼びかけているはず。

『無量寿経』の中に編入されている『讃仏偈』は、法蔵菩薩が世自在王仏に呼びかけているはずなのですが、いきなり「アミタプラバ」って、「阿弥陀光」というお名前だと思います。世自在王仏の通称なのか。とにかく、『讃仏偈』は呼びかけから始まることがわかりました。

原文を見ると、文字数を整え韻を踏んで、呼びかけから始まるって、ラップみたいです。お経はラップの元祖だったのかな。

あと、「sūrya」は「太陽」、「candra」は「月」だったと思います。「amita-ābha」(無量光)のような形の「candra-ābhā」という複合語がありますね。「ābha」は「光」だから、「月光」ということでしょうか。

sarva-lokeは「全て+世」だから「全世界」の処格だから「全世界において」か。

次の節の「rūpam」は「rūpa」の対格。このルーパは、いろんな訳され方があり、色、身体、姿とかだったでしょうか。ここではどう訳したらいいのか。漢訳では「如来容顔」の部分だと思われます。「api」は「〜も」「〜と」だったような。あと、「ananta」と「buddha」が頻出してますね。

「tatha api」は、「たとえ〜でも」とかだったような…。

「śīla」は戒、「samādhi」は三昧、「prajñā」は識だったかな?

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後ろの索引の「amitābha」の項。少し上には「a-mita」の項もあります。(p.102)

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同じく「amitāyus」の項(p.102)

アミターバ(無量光)とアミターユス(無量寿)という二つの呼び名が同じ経典で出現するのが〈浄土三部経〉の特徴だと、藤田先生は別な著作で説かれていました。両者を合わせ持つのが浄土経典の所以だと。


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