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サブカル大蔵経680せきしろ『海辺の週刊大衆』(双葉文庫)

ブックオフで出逢えた経典でした。

無人島とは、今の私がいるところ。地獄。

そこに如来として現れたのは、週刊大衆。

本書では「週刊大衆」にカギ括弧がついていません。現実世界では単なる雑誌ですが、もはや別次元の存在に変容した存在として描かれているからでしょうか。いや、単なる雑誌なのですが。しかし、極限の中では。

今日も僕はひとり、週刊大衆に言葉を付ける作業を続け、時間を潰していた。僅かな文字を付け加えることで週刊大衆を変えることができる。p.83

変わることのない存在を、言葉で変える。本文を打ち込んだ私のスマホは今、〈し〉と入力したら〈週刊大衆〉が出てきます。

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週刊大衆が似合う場所を探し求めた結果、ついにベスト5が決定した。5位は『電車の網棚に置かれた週刊大衆』/4位は『座席を確保するために置かれた週刊大衆』/3位は「夜中のコンビニの床にぽつんとある、ビニールで梱包されたわずか数冊の週刊大衆』。あまり流行っていないコンビニ、例えばコンビニになる前の個人商店だった頃の匂いがまだするようなコンビニならなお良い。夜の薄暗い店内の床に置かれた週刊大衆。どこか寂しげなこの風景に週刊大衆は静かに溶け込む。/2位は『時速80キロのダンプカーの風に表紙だけがめくられる週刊大衆』/それをおさえて見事1位に輝いたのは『タクシーに乗る時、荷物を積もうとトランクを開けるとそこにあった週刊大衆』である/様々な人を乗せ、様々な人生が通り過ぎていったタクシーに週刊大衆が似合わないわけがない。p.58

 求めなくても現れる週刊大衆。仏教では向こう側から来たる真如(真実)を〈如来〉と説きます。週刊大衆は、現代の如来か、人と供にとどまる地蔵菩薩か。

栗→週刊大衆→蜂→牛糞→臼
栗に攻撃された猿は慌てて水桶に向かうのだから週刊大衆どころではないだろうしp.108

 猿蟹合戦と週刊大衆

この週刊大衆はもう読んではいないが、僕に残された唯一の娯楽であり、大げさに言えば唯一の文明である。僕しかいないこの場所と、そうではない他の場所の繋がりを感じさせてくれるものである。失うことは絶対に避けたい。p.126

 読まれることから解放された週刊大衆。その時別なものに変わる。怨憎会苦が愛別離苦に一番近いところにいる。

とうとうこの日がきた。退屈で気が狂いそうな状況。このような時が訪れることを薄々感じていた僕は、ある準備をしていた。それは「袋とじ」である。p.128

 週刊大衆の飛び道具。それすらも勝てない無人島という無間地獄。これを読んだ時はコサキンでのラビーの替え歌を思い出しました。せきしろさんは私と同年代ですのでシンパシー感じます。

それでも週刊大衆はそこにある。p.132

 このネット記事、ゲスだなと思ったら、出典はだいたい「週刊大衆」です。芸能界からも意識高い読者からも批判されている双葉社の核心かつ獅子身中の虫。しかし、本書によってそのアイデンティティが確立されました。

そしてなんだかんだでその記事にアクセスするから、また「週刊大衆」の記事が私のスマホに送り込まれて来ます。現代社会という無人島に現れる如来。

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