サブカル大蔵経354クロード・レヴィ=ストロース/大橋保夫訳『野生の思考』(みすず書房)
『野生の思考』は1960年代に始まったいわゆる構造主義ブームの発火点となり、フランスにおける戦後思想史最大の転換を引き起こした著作である。本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる「未開の思考」なるものが存在すると言う幻想の解体である。
未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は「野蛮人の思考」ではなく、我々「文明人」の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ「野生の思考」と呼ぶべきものである。それに対して「科学的思考」は、限られた目的に即して効率を上げるために作り出された「栽培思考」なのだ。(訳者あとがき)p.354
読み返すたびに迫る文章。もう何重にも覆われた温室育ちのわたしに向けられている言葉だからです。
本文はほとんど頭に入ってこない。でも、なんかとてつもなく大事な発見が記されている感じはします。その雰囲気買い。
いつまでも文庫にならないのは、本書と『薔薇の名前』が自分の中では双璧です。
自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。(バルザック)
いつも檀家さんの農家の方から感じるものはこれだったのかもしれません。誰よりも天候を気にするはずなのに、どこかいつも諦めたような達観の佇まい。土くれた掌で完徹された仕事の上での優しい言葉。
フィリピンのハヌノー族、キンマの種類、動物461種の分類。/ピグミー、動植物についての底知れない博識。p.4.5/動植物種に関する知識がその有用性に従って決まるのではなくて、知識が先にあればこそ、有用ないし有益と言う判定が出てくるのである。p.12
名前をつけることの本質。
器用人(ブリコルール)は多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとは違って、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬと言うような事は無い。「もちあわせ」、すなわちその時その時限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内容構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。すなわちいろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりとしたときの残り物で維持されているのである。p.23
〈道具にこだわらない〉〈ありあわせ〉これは料理の原点であり、茶道の本質だ。後年、道具にこだわり、材料を取り寄せたりして準備するようになるのは、"野生"が失われたということか。芸術も宗教もそうかも。野生の宗教とは。中沢新一さんが講談社メチエ「カイエソバージュシリーズ」で説いていらっしゃるかも。
器用仕事(ブリコラージュ)は、また「二次的」性質を用いて、仕事をする。英語のSecond hand「中古」を考えあわせてみよ。p.28
本物にこだわらないからこそ本物。思い出すのは、姜尚美『京都の中華』(幻冬舎文庫)に、京中華のお店は、調味料にこだわらない。ということが描かれていたことだ。現地の味?本格?なんどすそれ?みたいな。理屈よりも、舌と言葉の肥えた客にしゃきしゃきした美味しいものを出すことに全てをかける。
彼らは思考能力のあらゆる操作に習熟し、ヨーロッパの古代及び中世の博物学者や錬金術師に近い考え方をしている。p.51
博物学者、錬金術師こそ本来の科学者。野生の科学者か。
ブリコラージュ〜感じとしては「日曜大工」に近い。p.332
訳注にこう記されていました。【日曜大工】か…。自作パソコン、自作本棚。うまくいかないで、結局いいやつを買った方がストレスもなく、安物買いの銭失いとなりかえって高くつくこともある。それでも自作する人たちの根底には、"野生"というより、目の前の商品に対する信頼の無さ、全てのものに対する不信感が見え隠れする。
私にとって人類学とは非常に厳しい世界である。(訳者あとがき)p.365
人類学という学問の厳しさ。世間的な風当たり。それでもなお魅力を放ち続ける本書が現代の人類学を掘り起こすだろうか。
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