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サブカル大蔵経36 岡潔/森田真生編『数学する人生』(新潮文庫)

 一読して驚きました。これ、仏教だと。数学と東洋思想。数学と仏教の相性。考えたら、ゼロを発明したのはインド人。実は仏教は理系なのでは?

 数学の、理と意、物と情。苦しい人を常識から放つ。稀代の数学者岡潔の言葉を現代の全身数学者森田真生が編み放つ。森田さんのことはミシマ社の雑誌「ちゃぶ台」で知りました。

 みなさんにとって、一日一日をどう過ごせば良いかが、深刻な問題になってきている。p.25

 この本での岡潔の最初の言葉は晩年の京産大での講義で発せられたものです。京産大生は今すぐ岡潔を読んでほしい。あなたたちの今の状況を見越して心配してくれていた先生がいたんだよと。

 私たちは確かに、いろいろなことを知っていますが、根底まで尋ねていくと、皆途中でわからなくなって、はっきりしているものなど一つもないのです。p.26

 数学という「解」がしっかりしている学問の先生が言うと説得力がある。根底まで普段は尋ねていけない。それはいつか。

 不安定な素粒子は、五感でわからない世界から生まれてきて、再び五感でわからない世界へ帰っていく。だとすれば、五感でわからないものはないと言う暗々裏に置いた仮定は、完全に間違っていたということです。p.29

 五感でわからない世界から生まれ、五感でわからない世界に帰る。だから五感の絶対は成り立たない。

 物質の世界が独立して存在するはずだという大前提が覆されてしまったのですから、自然科学は救いようがない破局に当面している。p.30

 これ、仏教の「空」ですよね。科学の破局と仏教の智慧は補完できるのか。

 人は情の中で生きている。何も知らなくても、うれしいときは嬉しいし、悲しい時は悲しい。情さえ健在なら、こんなに無知であっても、人生を送るに差し支えがないのです。p.45

 知の果ての情。

 ともかく、何がなんだかまったくわからないというのが、人類の知の現状です。さっぱりよくわからない。しかし、こういうことだけは言えます。世界の常識は間違っている。p.58

 知るということを望み重ねてきた人類の到達点が「何がなんだかまったくわからない」(笑)って、自然科学も社会科学も医学もここまでなかなか言い切れない。万巻の書を読んだ末に念仏を選んだ法然的か。

 こんな速さで、いやこういう加速度で行ったら、おそらくあっという間に地上の生物は消えてしまうだろうとそう思うのです。p.218

 人類すら相対的。

 大阪中島の公会堂で浄土真宗の人たちにお話をした。「物質と生命」と言うテーマだった。p.255

 ご縁あったんですね…。

 ところがふとした瞬間に関心が移ることもある。勉強をしながら、窓の外の雲の様子に心奪われたり、仕事の帰りに見上げた空の月に見惚れたり、そうして関心の集まる場所が社会から自然界に移る刹那、ぎゅっと肉体の内に閉じていた「自分」が、広がっていくのを感じることがある。p.284
 ときに人は、自然界の方に目を転じ、心を少し広い場所に解き放つのだp.285

 目の前の物理の詩的空間と時間こそが、私を解き放つ仏教の題材。僧侶や本山というメインではないサブのカルチャーから、強豪の仏教者がまたひとり誕生していた。

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本を買って読みます。