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サブカル大蔵経64川田稔『木戸幸一』(文春新書)

 ノモンハンや関東軍、大陸の戦地の影で日本本土の政権中枢は何をしていたのか。時系列で丁寧に著述。大久保(牧野)と木戸、維新コンビの子孫が天皇側近にいた。内大臣、その時の政権と軍部と天皇をつなぐ役職。

 しかし、木戸や近衛がこんなに軍寄りで政党嫌いだったとは。。清濁合わせ呑む意図が、逆に呑まれたのか。なぜ何回もとっかえひっかえしたのか。「内閣不一致」で総辞職の連発。みな内閣から去ると元気になる。あとは、当時の日本の方針の英国憎しソ連頼りに驚き。

木戸・近衛・原田熊雄学習院p.12

 学習院トリオが日本のこの時期の政権を動かしていた。軍部と学習院。

牧野内大臣は大久保利通の次男p.15

 牧野も西園寺も西欧留学がキモか。

近衛は首相就任拒む。昭和9年秋に語る。今の政党はなっていない。議会はどうにもならない。不勉強だと言って軍人が怒るのも無理は無い。今の日本を救うにはこの議会主義ではダメじゃないかと思う。だがこの議会政治の守り本尊は元老西園寺公です。p.51

 近衛の政党、民主主義への不信感に驚く。

木戸、近衛内閣時の1938年9月原田に語る。どうも今の陛下は科学者としての素質が多すぎるので、右翼の思想なんかについての同情がない。そしていかにもオルソドックスで困る。p.69

 天皇を、科学者、オルソドツクスと。

1939昭和14年、平沼内閣。木戸、原田に曰く、今の陛下は科学者であって非常に自由主義的な形であると同時にまた平和主義の方でもある。そこでこの変化のお考えになり方を多少変えていただかなければ、将来陛下と右翼との間に非常な隔たりができることになると、ちょうど孝明天皇が晩年に側近をすっかり幕府に取り替えられてしまったような具合に、どうされるか分からない。で陸軍に引きずられるような格好でいながら、結局はこっちが陸軍を引っ張っていくと言うことにするには、もう少し陸軍に理解を持ったような形をとらなければならん。p.74

 孝明天皇…。つまり、太平洋戦争に至るまで、日本は幕末の尊王攘夷と同じ感覚だったのか?井伊や岩瀬、小栗、岩倉…。そこに木戸と大久保。悶死した木戸と大久保の子孫のルサンチマンか?大久保(牧野)は抑え、木戸は抑えきれなかった。

 5月から9月にかけてノモンハン事件が起こった。p.76

 日本本土では新聞でもこのくらいのベタ記事だったのかな。

原田曰く、今度の木戸内大臣になってから、かねて陸軍は非常に喜んで毎日内大臣のところに詰め切り状態。p.98

 軍部がこれだけ喜ぶって…^_^

昭和天皇は首相任命の際、憲法を尊重すること、英米と強調すること、財界に動揺を与えないことを注意する。木戸の伝達で第二次近衛内閣時には前二つを省かせた。p.119

 これ、今の憲法問題考える中で、スクープものの記事ですよね。

1940(昭和15)年、近衛内閣のもとで国家総動員に向け政治経済のみならず言論や集会の取締や国民生活そのものへの厳しい統制の実施が意図され、9月には内務省が部落会町内会隣組などの組織を整備強化する方針を出す。天皇が現人神とされ極端に神格化されるのは主にこの頃からである。p.144

 総動員、近衛時代から、天皇神格化。それまではそうではなかった。この視点も相当大事な事実かと。

木戸は戦後、東久邇さんと言う意見もあったが僕はその時に戦争は避けられないと思っていたんだ。そして戦争すれば負けると思ったんだ。だから敗戦によって皇室が国民の怨府になることを避けるため東条にしたと語る。木戸は戦後様々な回想を残しているがその資料評価には注意を要する。p.273

 信用されない木戸語録。生き残った人は後から記憶を改竄する。マッカーサーも勝海舟もそうらしいが。

開戦。対米英蘭戦争指導要綱。その2、東亜諸民族に対し東亜の白人よりの解放、大東亜共栄圏の建設を呼びかけ、その協力を求める。p.289

 これが、大東亜という旗印なんだ。

1944年、将来の方向として日本は、アングロサクソンたる米英に対して、東洋的なる蘇支(ソ連と中国)と提携し密かに実力を蓄えるべきだと。p.304

 これからそうなるかも。

1945年、近衛に木戸は、この上は戦争終結を自分がやらねばならぬ。そうすれば殺されるだろうが、後は頼むと伝えている。日記にも、一生一度国家の大犠牲となりて一大貧乏くじを引いてみたいもの。との記述。p.329

 芝居かかる木戸語録。桂小五郎みたいに逃げきれたか。

8月9日午後2時半からの臨時閣議で同様の議論がなされた。この閣議の最中に長崎に第二の原子爆弾が投下されたとの報告が入った。p.339

 会議中だったんですね…。やはり会議って業を感じる。

皇室の存続を第一とし、そこに危険の及ぶ事は絶対に避けたいとの強い意志によっていた。その使命感は、木戸自身にとっては、維新の元勲である木戸公爵家の祖父木戸孝允を意識してのものだった。だが結果的にはそれが太平洋戦争による大規模でかつ極めて深刻な参加の1つの要因となる。

…木戸孝允の血が日本を…。長州の血脈?今も?

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本を買って読みます。