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サブカル大蔵経957新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』(春秋社)

『西方指南抄』は東西両本願寺が出版した「聖典」には含まれていない。p.1

浄土宗からも浄土真宗からも鬼っこ扱いの本書。法然の言葉を大事にする親鸞の姿。

貴重な全訳。

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この浄土宗は狭くて浅い。従って、浄土宗以外の諸宗は、今の時において機(救いの対象としての衆生)と教が相応しない。教は深く機は浅い。教は広く機は狭いからである。たとえば、合唱で音が高すぎると、それに合わせられる者が少ないのと同じである。p.34

 「狭くて浅い」と語る法然。ゆえに、現代に合った教えという視点。ちょうど今の大河ドラマの時代。敵味方骨肉の争い。

下品下生とは、五逆を犯した重罪の凡夫である。p.51

 法然の「罪」の意識。真宗よりも浄土宗の方が罪の意識が強いように思えました。日常のお勤めでそのことが伺えました。

阿弥陀仏はこのように寿命が無量であるとは言え、また涅槃を迎えて隠れられる時がある。p.74

 弥陀入滅!この考え方は初めて知りました。

浄土門の人々にとっても一切経は大切である。その理由は、この『観経』の三福の中に説かれている諸行の内容が他の諸経に顕されていなければ、私たちはそれらについてはっきりと知ることができないのではなかろうか。p.105

 一切経を幾たびも読んだ法然の説得力。これを親鸞も受け継いでいるはずで、それが教行信証なのでしょうか。

浄土宗は、まずこの娑婆、すなわち穢れと悪に満ちた世界を離れて、かの安楽浄土、すなわち一度生まれると決して後戻りをしない浄土に生まれて、自然に修行を続け功徳を積み、仏道を完成して悟りを得ようとする仏道である。p.130

 浄土は終わりでなく、はじまりの世界。この文読むと非常に能動的かつ、現世では悟れない、その時間もないことが感じられる。来世も込みでの仏へ至る道か。

自宗の正しさを主張し、他宗を論難することは、学問を積んだ者のすることである。愚人の口出しをすることではない。そればかりか、そのような者は誹謗正法の罪を犯しており、弥陀の本願の働きから除外される。その報いとして、必ず地獄に落ちるだろう。p.169

 『七箇条起請文』の一節。地獄に落ちるということまで説かれているんですね…。よほどそういう不埒な同朋が多かったのか。しかし今の私たち教団にも投げかけられている言葉のような。浄土宗にも浄土真宗にも。

私が亡くなった後に決して1つの所に集まってはなりません。その理由は、「ともに仲良く集まっているようであっても、人は集まれば必ず争いが起こる」という箴言は真実だからです。p.174

 内輪で集まることはサンガではないと。今読んでいる『2016年の週刊文春』でも「内部で集まっても人事の話しかしないから、外に出なさい」という場面あり。

念仏のほかに難行を加える人はいつまでも往生できない、と言っているわけではありません。どのようにも、たとえ相手が他宗の行者であっても、人を貶したり謗ったりすることは、すべて重大な罪であります。p.221

 法華経を読むことへの回答。ここも現代でこそ大事な視点、おさえだと思います。

自分の心を弥陀仏の本願におまかせし、決定往生の信を取ったからには、他宗に依って善根を励む人と縁を結んだり助けの手を差しのべたりするのは、全く雑行とはなりません。それは自分の往生のための助業となります。p.238

 ボランティアOK。念仏の妨げにならなければ良いということでのブレなさは一貫していて気持ちいい。

現世での幸福を願って仏や神に祈ることは、それほどいけないことではありません。後世の往生を願うには、念仏の他に道はありません。自力の行をすることは念仏の妨げとなるので、悪いことです。この世での利益のためにお祈りをすることは、往生のためではありませんから、仏・神に祈るのは、とりたてて悪いことではないでしょう。p.290

 現世と来世をきっちりと分ける考えが、あらためてすごく新鮮でした。現世の幸せに対する神仏への祈りはOK。来世に関する祈りはNG。これがもともとの法然・親鸞の浄土観なのでは。どこからか、祈りや祈祷との区別化・先鋭化をするようになってきたのかもしれません。

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