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サブカル大蔵経45 金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書)

  YouTubeの今田耕司さんのチャンネルで、アローン今田さんの唯一の家族であるロボット「pepper」が原因不明で声を出さなくなってしまった動画が公開されています。声を出すロボットとのやり取りも少し異様だけどとても面白く拝見してましたが、それが声を出さなくなると途端に見ていて悲哀感があふれるものになりました。見てはいけない禁断の動画か?という感じすらしました。なぜなのか?今、ふと金森修さんの新書を思い出しました。ユダヤの伝説の怪物ゴーレムを通して、怪物、家畜、屠殺、名前、いのち、人間が浮かび上がる問題作で、自分の中では新書のベスト10に入っています。

 ゴーレムを語ることは、命を語ることであり、同時に人間を語ることである。p.10

 妖怪や怪物キャラの中では地味なイメージのゴーレム。それが、いのちや人間につながるとは。

 人間は大地からできており、やがて死ぬとき、塵となって大地に戻っていく。p.23

 ゴーレムは土人形です。

 ゴーレムを動かすには<真理>(emeth)という言葉が刻まれた護符を貼る必要があり、動きを止めるためには、最初の一文字アレフeを取り除くと、methとなるが、それは死んだという意味になる。p.30

 真理と死が一文字違い。紙一重ということでしょうか。

 優れたラビでさえ神に比べれば劣った創造主にすぎないわけだから、その劣った創造主によって造られた存在として、それがいくつかの欠陥を孕む劣等人間だということ。p.103

 ユダヤの教えですね。いや、西洋に共通しているか?

 モンスターmonsterの背後にはmoneoという動詞。モネオーは、思い出させる、警告する、意味。つまりモンスターとは、何か注意すべきことが起きているという警告。p.107

 モンスターとは?妖怪とは?

 アウグスティヌスは怪物の存在を神的配慮の内部に位置付けようとした。p.109

 神と怪物の問題。

 食用ゴーレム。未生物の塊、処理しても、屠殺にはならない…。p.183

 ここから家畜の問題、いのちとしての動物の問題に入ります。

 IPs細胞などは、或る意味で<途上過程の生命>そのものに他ならず、その意味で現代的ゴーレムを象徴する存在。p.184

 iPS細胞はゴーレム!

 「お父さん。わたしは、この美しい夕日を、覚えていることができるでしょうか。」「いや。できぬ。お前は土に戻るのじゃ。」この一節に出会ったことこそが、私に本書を書かせるきっかけを与えてくれたものだった。ゴーレムは土に帰っていく。「生きさせてください!」と叫びながら。「私はあなたの命令を、すべて果たしました。生きていることは…わたしにとって…かけがえ…のない…こ…と…で…す!」ここでゴーレムがしているのは<命乞い>である。なぜラビは命乞いをするゴーレムの願いを無視し、それを土に戻さねばならなかったのか。p.194

 さまざまなゴーレムの絵本の中で著者はこの作品をとりあげます。

 ゴーレムが話せるということなのだ。言葉をもつゴーレムは、魂を持つ存在に近づく。p.194

 言葉を持つ者、会話ができるものは、魂を持つ者、人間。だとすれば、言葉を持たない者、しゃべれなくなった人を、私は人間として認めていただろうか?

 ゴーレムはユダヤ人を守るために造られた。そして、役目を終えると土に戻された。中略 例えば家畜に対して行っている行為と関わってくるではないか。われわれは牛や豚を育てる。それらが或る程度成長すると、それらを殺して食べる。牛や豚が「話せない」と言う事は、ちょうど先の童話バージョン以外でのゴーレム伝説のゴーレムのようなものなのか。話せないことをいいことに、われわれは無慈悲に、牛や豚が何を感じているのかなどは知らないふりをして、それらを殺し続けているのだろうか。中略 こう考えてみるなら、話せない土の塊、やや鈍く愚かな土くれに過ぎないゴーレムのことなど、それが仮に無言ではなかったとしても、それが仮に命乞いをしたとしても、それが暴れず狂わなかったとしても、適当な時期が来ればそれを元に戻すと言うことに、特段の苦悩も躊躇も感じないと言うのは、当たり前だと言うべきなのだろうか。p.196

 この文読んだ時、楳図かずおの『14歳』を思い出しました。話せない家畜の逆襲がチキン・ジョージであり、鳥インフルや狂牛病であり、このコロナだと。

 ゴーレム伝説には、そもそものはるか昔から、ゴーレムの命に対する或る種の無頓着さのようなものがある。だが、ゴーレムの命に対する無頓着さは、ひいては命一般に対する無頓着さには至らないのだろうか。p.198

 これは著者の遺言だと思う。

 怪物的なヒールになれそうでいて、なかなかなれない<善人の怪物>。p.207

 水木作品なら、ぬりかべかな?

 ゴーレムの影がまだプラハには潜んでいるような気がする。p.208

 見出し写真のゴーレムは、20年ほど前プラハに行った時にユダヤ人墓地近くの露天で並べて売られていたものです。本書で引用されていたような絵本もたくさん売られていました。なぜプラハは絵本の街なのか。今、また思います。

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本を買って読みます。