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その本はなぜ本棚にあるのか。

我が家の本棚は、大きい。3段のカラーボックスをつかっていたけれど溢れているのを見かねて大きいのを買ってもらった。

通勤時間に必ず1冊文庫本をよみ、週末予定のない日はお風呂で数時間湯船に使ったり、湯船に腰掛けたりしながら何冊も本を読む。
そんなことが習慣だった頃がある。
ハリーポッターシリーズを土曜の昼間にお風呂で読み出し、気がついたら日曜日の夕方だった時はさすがに自分に驚いた。(もちろんお風呂で気がついた。お湯が冷めたら追い焚きをしてを繰り返していたので、その月のガス代の高さ…)
読書の熱は当時に比べると薄くなっていて読む量は少ないように感じているが、やはり好きでなんだかんだで毎月1万円は本(電子マンガも含めてね)につぎ込んでいる。

ただ、小説について言えば、限られたジャンル・限られた人の本しか読まない。正しくは、読めないという偏読傾向がある。

現代が舞台・設定の小説は、読み進める内に、登場人物の感情や背景、情景がリアルすぎて脳がパンクする感覚が起きる。処理できない感覚。めまいがすることが多く苦手としている。
もちろん、文章が合う合わないが大きいのだろうとは思うのだけれど
吉田修一の「東京湾景」で本当に気分が悪くなり吐いたことがあるのでどうも、先入観も持ってしまったようだ。
(吉田修一は何も悪くない。貸してくれた先輩も悪くない。)
ちなみに、村上春樹や平野啓一郎は「文章の理解しないと」という意識が、感情よりも勝つのでまだ読める。(良いのか悪いのかは置いておいて。)

一方、ファンタジーや歴史小説は大好きで色々と想像するのが楽しい。頭の中で登場人物がアニメのように動いている感覚で読んでいる。
なので、動きの大きい文章が大好きで、最近だと阿部智里、白川紺子あたりがとても面白い。
小さい頃から、本は現実逃避のグッズだったことも大きいのかもしれない。自分に近い設定、自分がわかってしまう感情を求めているわけではないのかもしれない。
スポーツをして頭を空っぽにし、ストレス発散をするように、本をよみ空想をすることで頭をリフレッシュしているのかもしれない。

そんな背景もあり、こじらせた本棚を形成している。
さらに新刊を買うのと同時に、
・お風呂の湿気で歪んでしまい読めなくなった本
・引っ越しをする度に本を取捨選択するわけだけれど、毎回さよならをしたのに亡霊のように読みたくなる本
などを同じタイトルを何回も買い替えている。
しかも、タイアップ(映画化・アニメ化)で最近は表紙が代わってしまうことも多いが、「自分が買った時の表紙」を求めることが多い。
そうなると、毎年7万冊出版される日本ではよっぽど売れる本でない限り、ましてや文庫本なんて入れ替わりが激しいので書店で見かけることは難しくなる。そうなると、ブックオフを周りAmazonに潜り、メルカリを攫う。
それでも見つからなければ、しわしわの本を残して同じ本を買い、表紙カバーをそっと付け替えるのだ。シワシワの本は売れないのでそのまま本棚の奥に一旦格納される。

こうして、冒頭のように本が本棚から溢れていく。なんといういう無駄!

自分でも本当に面倒くさい。けれど、何度読んでも何度読んでも新しい発見があって、好きだなぁ。また読みたいなぁと思える本があることは幸せだなと思う。だから、あの本もこの本も我が家の本棚にあるんだ。

しかし、そろそろ整理しないとまた溢れてしまいそうだなぁ。


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