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要約について:『総合ー人間、学を問う』まであと6日

こんばんは。MLA+研究所代表の鬼頭です。

私は3日坊主になりがちなので、毎日続けられるか、定かではないのですが、『総合ー人間、学を問う』の開催日まで、なるべく記事を更新したいと思っています。

「要約」というタイトルをつけましたが、最初に断っておくと、企画の中身が要約してあるわけではなく、あくまでも「要約について」の私の考えを述べた記事です。

現代のライフスタイルは多忙であり、たくさんの断片的な情報に溢れています。

実際にはそれなりに昔からあったことですが、ある本の中身を「要約」で読むということも少なくはないでしょう。

「要約」を売りにするサイトは沢山ありますし、私も読んだことのある本で、記憶が不確かなときに、そういうサイトを見て、そうそうこんなことが書いてあったわ、と助けてもらうことが少なくありません。

あるいはMLA+研究所の所員の著者から、自著の「書評」を頼まれて私が書いたということもあります。
もっとも、この書評では最低限の内容紹介はしていますが、「要約」を読んだら「全体」が理解できるという書きかたはしておりません。
(※先にお断りをしておきますが、嶋崎研究員の見解はMLA+研究所を代表するものでも、研究所の総意でもありません。ついでに言うと、私の署名記事もそうです。しかしMLA+研究所は、かりに所長の私個人の見解と各所員の見解が異なる場合においても、所員の「研究の自由」を最大限尊重し、異論を交わし続けることが、研究の明日を切り拓くことになると堅く信じております。)


私は何かを知るきっかけとして、あるいは何かを思い出す縁(よすが)としての「要約」は、限られた人生のなかで、きっと必要なんだろうと思います。
ある人が仰ったことですが、人が何かを知りたいと思う入口は、たいてい「噂話」からです。
あるいは、私の知り合いには、高校の「倫理」の教科書で、とある哲学者が紹介されているのを見て、その道の研究に志された方もおられます。
現代でも原著にアクセスするというのが、地理的な理由、経済的な理由、あるいは物理的な理由、言語的な理由などで難しい場合もある以上、何かを通して、間接的に知るということは、限られた時空間で生きているかぎり、仕方のないところもあります。

「仕方のないところ」と書きましたが、「要約」はそれが「すべて」ではないことがわかったうえで使うなら、生活の役に立つこともあるだろう、ということです。
けれど、「要約」や「解説」に慣れてしまうと、原著への忍耐力がなくなってしまうという欠点があります。
どういうことかと言うと、「それ以外」の読みができなくなってしまうということです。
しかし、当の原著の豊かさの源泉は、「それ以外」の読みがあり得るという事実に支えられています。
意味が曖昧だから多様に受けとれるというのではなしに、読み手が置かれた状況次第で、原著に見出されるものが変わってくるということです。

『総合ー人間、学を問う』の1つのテーマは、「人間理解」のありかたにまつわるものです。
日常生活において、この人はこういう「タイプ」だという認識はつきものです。
いやいや自分はそういう「偏見」とは遠いと思われるかもしれませんが、「言葉」の世界に生き、社会のシステムのなかで生きているということは、多かれ少なかれ、そのような「枠」を前提にして生きているということです。
と同時に、世界がもしある種の「混沌」としてこの私に迫ってくるなら、きっとその「刺激」に私は参ってしまうことでしょう。
この意味で、何かを理解するときに、「タイプ」が出てくること自体は「仕方のない」ことです。

けれど、そのような「タイプ」というのは、大雑把なものです。
要するに、繊細ではありません。
車にはねられそうになっているときに、この車はどこのメーカーのどんな車種でと考えるひとは、そうそういないでしょう。
ひとまず、「車」だとわかれば、あるいは高速でやってきていて、当たったら少なくとも怪我しちゃうかもしれない、と分かれば、それで十分です。

しかし、その大雑把な見方で「その車」の「すべて」はわかりません。
「車」であれば、そう思うことでも、原著の「要約」については、そういう風にはなかなか考えません。
何故にか、「要約」を読むと、「それ以外」の読み方がありそうでも、なんとなく「わかった」気になるのです。
断っておきますが、難解なものを自分なりに考えるうえで、「要約」を参考にするということは有り得ます。
ただ、得てして「要約」というのは、何かを考える手掛かりになるよりも、人の思考を止めてしまうもののようです。

そもそも、紙が貴重だった時代なら、もっとコンパクトに書いてあったであろうものを、無駄に長く書いてあるなと思う本が世の中に皆無というわけではありません。
しかし、その本がその分量になるだけの必然があるはずで、そのような理由のある本を、圧縮できるとしたら、そのような「要約」を書く人は、著者以上の天才でなくてはなりません。
したがって、その本の「要約」というのは、「何か」を削ぎ落としているのです。
因みに、削ぎ落としたもので十分だと思える内容であれば、原著まで遡る必要は無いのかもしれません。
「要約」の「要約」のような本であれば、その「要約」だけで十分だと思うことは十分に有り得ることです。

この文章もだいぶ長くなりましたので、結論めいたことをそろそろ書いておきますが、本の「要約」で「すべて」が「わかった」と思う感覚が、自分が経験したある出来事の経験や自分が出会った人間理解のしかたに結びついているとしたら、どうでしょうか。
つまり、ある出来事を経験して感じたことが「要約」され、自分が出会った人がどんな人なのかを知ること自体が「要約」されているとしたら、です。
この経験は「だいたい」こんなもんだよねー、とか、この人はおよそ「こういうタイプ」だよねー、という会話を、日常生活で聞くことは少なくないのではないか、と思いますが、このような理解は、物事が複雑であるということを圧縮して、はじめて成り立ち得るものです。
現代社会は「忙しい」ので、確かにいつもいつも、そういうことを考える暇は私の家族を見ていてもそう思いますが、無いかもしれません。
ただ人は、繰り返し繰り返し、「要約」で「すべて」を「とらえた」と考える経験を積んでいくことで、つまりそういう方法は理解にかかるコストを「節約」できるという点で「コスパ」が良いために、次第に新しい誰かと出会っても、新しい何かを体験しても、自分が自明だと信じているのを危険に晒してまで、「理解」を微調整しようとは思わなくなるのではないか、と私は思います。

最近は「思考力」について語られることも少なくはないですが、もちろん何かを「考える」うえで、予め持っている手持ちの札(知識)が多ければ、その札を使って、未知の物事に、幾つもの網をかけてみやすくなるということはあるかもしれません。
ただ、そこで人は、未知の物事と出会うことよりも、手持ちの札を充実させること自体が楽しくなってしまうということがあります。
「理解」よりも「要約」を求めるというメンタリティも、ひょっとしたらこれに近いのでしょうか。
次回(執筆するのかはまだ分かりませんが、執筆するとしたら)、総合するということは、この世の「すべて」を知り尽くすことなのだろうか?という話をする、かもしれません(し、結局しないかもしれません)。

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