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【選書】ノンフィクション山岳小説ベスト5

誰にだって何にだって「初めて」の体験はあって、忘れ難いものだと思うが、私にとって山岳小説の「初めて」は、ジョン・クラカワーの『空へ』だった。

これは1996年のエベレスト大量遭難事故を扱ったノンフィクション小説で、のちに映画化もされたベストセラーだ。
当時、世界最高峰エベレストの登攀を、複数の登山隊が狙っていた。アドベンチャー・コンサルタンツ遠征隊、マウンテン・マッドネス遠征隊、IMAX/IWERKS遠征隊、台湾隊、ヨハネスバーグ『サンデー・タイムズ』遠征隊、アルパイン・アッセンツ国際隊、マル・ダフ国際営業遠征隊、ヒマラヤン・ガイド営業遠征隊、スウェーデン単独遠征隊、ノルウェー単独遠征隊、ニュージーランド-マレーシア合同プモリ遠征隊、プモリ-ローツェ営業遠征隊、エヴェレスト清掃遠征隊……他にもチベット側のルートからインド-チベット国境警察エヴェレスト遠征隊、福岡チョモランマ登山隊……といった面々が展開していた。エベレスト山頂のあの狭い空間めがけて、これだけたくさんの遠征隊が詰めかけていたとは驚きだ。
この中の多くが商業登山隊、つまり顧客が金を払ってツアーを組んでもらい、プロ登山家やシェルパの力を借りて山頂までガイドしてもらうという、ツアーガイド型の登山隊だった。

かつてはアルプスで雪山を、グランドキャニオンで岩壁を極めたような屈強な職業登山家が、その集大成として挑む最終目的地……エベレストはそういうものだった。それが、たとえアイゼンすら自分で装着できないような素人でも、金さえ払えばチャレンジできるようになったのだ。著者のクラカワーはそんな商業登山隊に記者として参加していた。

1996年5月、エベレスト・ノーマルルートでは二つの商業登山隊が、まったく同じ日に登頂予定日を設定していた。本来なら登山ルートの混雑を避けるために予定日をずらして行動するのだが、この二つの登山隊ーーアドベンチャー・コンサルタンツ隊とマウンテン・マッドネス隊が競合関係にあったりして、交渉が決裂してしまったのだ。
登頂予定日の翌日から天候が崩れることが予想されており、計画の遅れは許されなかったが、案の定ルートは大混雑する。
通常、標高7900メートル以上は「デス・ゾーン」と呼ばれ、そこに滞在するだけで、たとえ酸素ボンベを使っていたとしても、肉体が消耗してしまい肺水腫や脳水腫、心臓発作などのリスクが高まる。登山客はもともとの経験不足も相まってどんどん体力を消耗してしまい、さらにコースタイムから遅れていく。しかし客の方も、一世一代の決心をして(しかもものすごく高い金を払って)エベレストに挑んできたのだから、何が何でも山頂を踏みたいし、直前で引き返すなんて絶対にしたくない。
こういった様々な要素が掛け合わさって、ついに下山が間に合わなくなり、エベレスト山腹に取り残された登山隊に爆弾級の低気圧が襲い掛かったのだ。

この小説を元本にして映画化された『エヴェレスト3D』では、絶壁に渡された吊り橋にタルチョー(チベット仏教の祈祷旗)がはためき、登山隊が一列になってそこを渡っていくのをドローン空撮した、鳥肌が立つほど美しい映像から始まる。エベレスト・ベースキャンプへと続く、ヒマラヤの俊峰と深い渓谷に挟まれた神秘的なトレッキングルート、チベット仏教寺院での安全祈願の儀式……映画の前半では人々をヒマラヤ登山に惹きつけてやまない魅力がぎゅっと詰まっている。
そして後半の、爆弾級低気圧がエベレスト頂上直下でビバーク中のロブ・ホール達を襲う瞬間。真っ黒な雨雲がものすごい速さで足元から彼を呑み込む瞬間は、見ている側にも強烈に「死」を連想させるものだった。自然を征服しようとやってきたちっぽけな、蟻にも満たない無力な人間を、山と嵐が容赦なく洗い落とす……前半との圧倒的な対比に私の中の何かが変えられた気がした。

それが山岳小説、特にノンフィクション山岳小説との邂逅だった。

ただ、もちろん周囲に山岳小説好きはほとんどおらず、ブームはとっくに過ぎ去っており、どちらかというと「おじさんの読み物」的なイメージが付いて回るジャンルである。
実際読んでいて痛感したが、山岳業界自体が軍隊的で唯我的でミソジニーだった面もあり、山岳小説にもその色彩が多分に投影されている。
ありていに言えば、全く今風じゃないのだ。

しかし、ことノンフィクション山岳小説には、こうした欠点を補うくらいの魅力が十分あると思う。ここではそれを話してみたい。

本当は一冊一冊をきちんと記事にしておくべきだけど、山岳小説というのはどうしてもパターンがあって、毎回あらすじ説明なんかしていたら「山岳小説ってどれも似たり寄ったり」という印象になってしまいかねない。
なので、まとめて紹介して、それぞれの違いにも焦点を当ててみることにした。
というわけで、私的 ノンフィクション山岳小説ベスト5は以下の通りです。

シェルパ:現地で雇われ、登山隊と一緒に登り、キャンプの設営・ロープ設置・荷揚げ・食事の世話などを行うガイドの人々。もともと高所に住むシェルパ族の生業で、いつしか民族名=職業名となった。時にはルート開拓にも携わり、山頂に立つ事もある。かつて西洋列強が8000m峰初登攀を争っていた時代から彼らに雇われ、その山行を協力に支えてきた。エドモンド・ヒラリーと共にエベレスト初登頂者となったテンジン・ノルゲイもシェルパである。
麓の村からベースキャンプまでの荷担ぎだけをするポーターとは区別される。

登頂予定日:高所登山は、高所順応から登頂に至るまで緻密な計画のもと進められ、天候なども加味して登頂日があらかじめ決められる。同じ登攀ルートを選んだ登山隊は、各々の予定日を共有し、ルートが混雑しないよう日をずらしたりする交渉をする。エベレスト級の困難な山では、クレバスにかけられた金属梯子や垂直の氷壁登攀、乗っ越しなど難しいポイントが多くあり、人が多いと簡単に混雑する。混雑すると、寒く空気の薄い場所に長期間滞在することになり、それだけで体温を奪われ体力を消耗してしまう。

脳水腫肺水腫:脳や肺に水がたまる症状。高山病としてよく見られる。高所で脳水腫になると譫妄や幻覚、幻聴が現れる。肺水腫になると喘息のように咳が止まらなくなり、喀血する。いずれも高地では酸素ボンベを吸わせるか、一刻も早く下山するくらいしか手はない。


1.モーリス・エルゾーグ『処女峰アンナプルナ』

世界には標高8000メートルを超える山が14座あり、アンナプルナはそのうち最も最初に登頂された8000メートル峰。人類史上初のこの偉業を、現地調査から登頂、下山に至るまでの全工程にわたって、登山隊隊長のエルゾーグをはじめとした隊員が手帳に記していて、それを整理して出版されたのがこの本なのだ。世界中の登山家のバイブルみたいなものである。

かつて登山とは≒冒険であり、学術的なフィールドワークも伴っていた。その地域の地学や植生、地元の人々の民俗学的調査といったものが、狙う処女峰のどこから登り始めるかを決めるための現地調査に付随して行われた。本著ではこれらの興味深い成果も読むことができる。この、登山と学術調査が並走する在り方は、後年、大抵の高山が登りつくされて「無酸素」「単独行」「ラッシュタクティクス」「ディレッティシマ」といった先鋭登山がもてはやされるようになると、消えていった。

フランスからやってきたエルゾーグ隊には伝説級の登山家が結集していた。幸運にもフランスにはアルプスがあるので、もともと登山家の層が厚い。ルイ・ラシュナル(ドロミテやアイガーで活躍した名ガイド)、ガストン・レビュファ(名著『星と嵐』の著者)、リオネル・テレイ(のちにマカルー初登攀)など錚々たるメンバーをそろえてアンナプルナにやってきていた。
この当時、初登攀争いは国の威信をかけた国家的事業だったのだ。

はじめ、アンナプルナではなくダウラギリに狙いを定めていたエルゾーグ隊だったが、あまりに補給線が長くなってしまうことからアンナプルナに目標を変更する。じわりじわり高度を伸ばし、人海戦術で物資を荷揚げして、そしてついに1950年6月3日、北東壁ルートにおいてエルゾーグはルイ・ラシュナルと共に見事登頂した。人類初の8000メートル峰完登だった。
しかし、そこからが本番だったのだ。下山途中に猛烈な嵐が二人を襲い、エルゾーグは凍傷で足を失い歩けなくなる。やっとの思いで下山しても、そこから麓の町までは何日も歩き通さなくてはならない。医者がいるのはそのもっと先。腐り落ちていく足の指……。この下山における壮絶な逃避行こそ、本著の最も引き込まれた部分だった。

まだ冒険と登山が不可分だった時の学際的な豊かさ。
国家の威信をかけた初登攀競争のプレッシャー。
そして自然を征服できると思い上がる人間に、自然の本当の恐ろしさを突きつける山岳遭難のリアル。
本著はこれらを肌身に感じて教えてくれた。

8000メートル峰14座:標高が高い順に、エベレスト(8848m)、K2(8611m)、カンチェンジュンガ(8586m)、ローツェ(8516)、マカルー(8463m)、チョ・オユー(8188m)、ダウラギリ(8167m)、マナスル(8163m)、ナンガ・パルバート(8126m)、アンナプルナ(8091m)・ガッシャーブルムⅠ峰(8080m)、ブロードピーク(8051m)、ガッシャーブルムⅡ峰(8035m)、シシャパンマ(8027m)

無酸素:酸素ボンベを使わず登攀すること。特に低地の3分の1しか酸素がない8000メートル級の山では、よほどの体力・経験に自信がない限り酸素ボンベを使うことが一般的だった。ただし今は、重い酸素ボンベを荷揚げするより、しっかり高所順応して無酸素で登る方が合理的とする意見も多い。

単独行:一人で登攀すること。ヒマラヤにおいては、ルートファインディング・ロープ工作・荷揚げ・キャンプ設営の全てを一人で行う事になる為、飛躍的に難易度が上がると言われている。また遭難の危険も大きくなる。

ラッシュタクティクス:古くから8000メートル級登山は、10人以上の登山隊を結成し、山頂まで細かくキャンプを設置し(エベレスト・ノーマルルートはキャンプ8まである)、人海戦術で大量の物資や酸素ボンベを上部キャンプに運び入れ、、その過程で高所順応を済ませたのち、最後に山頂に立つのは登山隊の中から選ばれた2~3人のみ……という「ポーラーメソッド(極地法)」の方法で登攀されてきた。ラッシュタクティクスはその対義語で、少人数かつ最小限の滞在日数で、素早く登って素早く降りる……という方法。これをヒマラヤでやれるのは相当な先鋭登山家だけだが、「ポーラーメソッド」より費用が極めて安く済むし、登攀に献身的だったのに運悪く登頂できない、という理不尽もなくなる利点がある。

ディレッティシマ:困難な大岩壁や大氷壁を迂回せず、できるだけ直線的に登ろうとすること。当然、危険も難易度が上がるが、山行の評価も高くなる。


2.小林尚礼『梅里雪山 十七人の友を探して』

こんにち、ほとんどの高山が登攀されつくして、もはや「初登攀」の栄光を狙うことはほとんど不可能だ。世界の未知の領域が隈なく明らかにされてしまい、冒険ロマンも消えつつある。しかし、まだ世界には僅かながら「処女峰」が存在している。
中国雲南省にある梅里雪山(メイリーシュエシャン)の主峰カワクボ(6740m)もその一つで、ここは地元の人々にとっての聖山であるため、山頂への立ち入りが厳しく制限されていることから、こんにちまで未踏峰となっている。
しかし立ち入り制限がなれる前に、日本と中国の合同登山隊がカワクボの初登攀を目指して入山していたのだ。

本著は1991年に行われた日中合同登山隊の遭難事故に遭遇した著者が、逝ってしまった友人たちを想い、その山行を振り返ると同時に、彼らの遺品を氷河の中から拾い上げる活動を記したノンフィクション小説だ。
事故は登頂目前のキャンプ3で起こった。ある日ベースキャンプから無線でいくら呼び掛けても、キャンプ3は一切応えなくなった。雪崩とか滑落とか、何か劇的な事が目の前で起こったわけではない。京大大学山岳部の部員11人と中国人登山家6人の計17人が忽然と消えたのだ。
必死の捜索の甲斐なく、17人全員が遭難死という結果となり、日本に残っていた著者は友人達の遺族を訪問したり、後処理に奔走する。大量遭難が社会にどのような影響を与えるか、そのリアルを知る事ができる。
遭難から何年も経ったある日、梅里雪山の氷河の中から遭難者の遺品が次々に見つかる。著者はそれを集めるため再びかの地を踏む決意をし、遺品を収集し遺族に返す活動を開始する。
そのために麓の村にも協力を依頼するのだが、その時初めて、梅里雪山が現地住民にとって大切な聖地であり、登山という行為がそれを冒涜したのだという事に気付く。遭難者の名前が刻まれた慰霊碑には、名前を抉り取るように傷が付けられていて、農業の不作は全て聖山に土足で踏み入れた日中合同登山隊のせいだとされている。著者は根気強く村人達と対話し、彼らと分かり合おうとするーー。

梅里雪山は村人達にとって、古くからの信仰の対象だっただけではない。その雪解け水は飲み水や灌漑用水にも用いられてきたのであり、山中に残された17人分の遺体は腐敗して溶け出し、その水を汚染していた。これは登山という行為が常にはらむ問題であり、特に「初登攀」を争っていた帝国主義の時代には、同様のことが幾つもあったはずで、もしかしたら今でもそれが起きているかもしれない。登山にはそういう加害性が常に付きまとうこと、「全き善」の活動では決してないのだということに気付かされる。

主峰Ⅰ峰Ⅱ峰:多くの高山は大小さまざまなピークが連なっていて、基本的に最も高いピークを主峰やⅠ峰、二番目をⅡ峰と呼んだりする。例えば、ガッシャーブルム連山の最も高いピークがガッシャーブルムⅠ峰である。ほとんど一つしかピークがないものを独立峰と呼ぶ。


3.阿部幹雄『生と死のミニャ・コンガ』

この作品も『梅里雪山』同様、大量遭難を扱っている。
ミニャ・コンガ(7556m)は中国四川省に位置する。北海道山岳連盟登山隊が登頂を成し遂げたが、頂上付近で1人が滑落、その後ザイルで繋がれた7人全員が滑落して命を落とす。それを間近で見た著者の心の傷と、遺族達との交流を記録している点では『梅里雪山』と似ているが、こちらは著者自身が滑落現場に居合わせ、たった一人生き残った。
ミニャ・コンガ登頂の喜びと、一人取り残される絶望のコントラストが、読者の心臓を貫いて抉るノンフィクション小説である。

仲間達との何気ない会話、笑い話、登路の描写、無線でのやり取り、そして美しい写真が散りばめられていて、本著の前半部分は本格的な山岳小説という感じがする。

やがて周囲がガスって視界が悪くなってきた時、金属が岩に当たる音がして、仲間の一人が落ちていくのを遠く目撃する。その姿はすぐにガスの中に消えた。彼のジャンパーのなかに若い妻とかわいい娘の写真が入っていたのを著者は思い出す。

山頂に立って浮かれ気分だった一隊の雰囲気は一変した。天候が悪く、下山は容易ではない。捜索もろくにできない。誰もが意識朦朧とし、やっとの思いでザイルにカラビナをくぐらせていた。
著者が先行して懸垂下降をしている時、そのすぐ上で一人が滑落する。ザイルはみるみる引っ張られ、5人とも道連れに落ちていく。著者は最後尾の仲間に「とめてー!」と絶叫するが、6人分の重力が一気にかかり、仲間は跳ね飛ばされた。その瞬間、彼と目が合う。驚愕の表情で、しかし無言で、仲間はガスの底に消える。今日まで冗談を言い合っていた仲間がーー。

何度読んでも鳥肌がたち、寒くなるこのシーンは、私の拙い文章では全然伝わらないと思う。この時の読書体験はいまだに唯一無二で、忘れ難い。ミニャ・コンガという山名を聞くたびにこのシーンが脳裏で再生されるようになってしまった。

登頂の喜びと遭難死のリスクは釣り合うのか、という議論は昔からある。でもそんな合理的な話では捉えきれない複雑さが、登山にはあるのだということが本著から分かる。初めから山なんかやらない方が良かったのだと、本著を読んでも言えるだろうか?残された遺族のことを考えると答えは簡単には出ないけど、でも……。そういう曰く表現し難い、煮え切らないものを本著から受け取るのだ。
そして遺体は何年も雪山に閉じ込められ、やがて氷河から溶け出し姿を表す。ようやく気持ちの整理がついた頃に、再び遭難当日に引き戻されるようなものだ。その残酷さと無情さも教えてくれる。

しかし打ちひしがれた著者は、遺族との交流で再び人生を取り戻していく。
これは人の精神にまつわる、死と再生の記録である。

※ザイル:登山で使うロープのこと。一人が滑落してももう一人が支えられるように、危険地帯では互いの体にザイルを結び合う「アンザイレン」が行われる。アンザイレンする相手をザイルパートナーと呼んだりする。


4.クルト・ディームベルガー『K2 嵐の夏』

カラコルム山脈に位置するK2は、8000m峰14座中最も死亡率が高く、「死の山」と言われている。
この山にザイルパートナーと二人で挑んだクルト・ディームベルガーの『K2 嵐の夏』は、嵐のためテントに閉じ込められた精鋭登山家達が、日に日に衰弱し命を落としていく、想像を絶する悲惨さを伝えている。
8000m級の登山というのは、極限まで荷物を軽くし、テントも2人がやっと寝転べる大きさで、食料も燃料も切り詰めなければならない世界。狭苦しい所で寝起きし、寒く、空気も薄く、逆に日差しは強くて肌を焼き、常にサングラスをしていないと雪盲で視力を失う。そんな世界に閉じ込められながらも、精鋭登山家達は正気を失わず、真っ直ぐ山頂を目指すのである。

クルトは著名なオーストリア人登山家で、長年のザイルパートナーで女性のジュリーと二人でK2に挑む。彼らは他の登山隊から独立して、自分達のペースで登っていく。この時のクルトは結構な老年なので、いろんな失敗をやらかしたり癇癪を起こしたりするのだが(8000m峰にいるのだから無理もない)、パートナーのジュリーの優しさと忍耐強さもあって、見事登頂する。
しかし下山中に嵐に襲われるのだ。

巨大なハリケーンはC4に設営されていたテントを次々破壊し、クルト達は他の登山者6人とわずか2つのテントに閉じ込められる。次々と正気を失っっていく辣腕登山家達……。
下山中に滑落してから体調がすぐれなかったジュリーは、その日の晩にひっそりと息を引き取った。悲しむ間もなく彼女の遺体はすぐにテントの外に出されてしまう。クルトにとって長年アンザイレンしてきたザイルパートナーを、何より心から信頼できる友を亡くした瞬間だった。
吹き荒ぶ吹雪の中を、別の登山隊の男と共に、命からがら下山する。脳裏に逃避行の場面が何度も蘇り、あの場でどうする事が人として正解なのか、読み終わった後も考えさせられる。

クルト・ディームベルガー:Wikipediaによると、ブロード・ピークとダウラギリの二つの8000m峰を初登頂した、唯一の存命人物らしい。まさに山岳界のレジェンド。


5.ラインホルト・メスナー『ナンガ・パルバート単独行』

クルトよりも若い世代における山岳界のレジェンドといえば、8000メートル14座を全て無酸素で登頂した唯一無二の登山家ラインホルト・メスナーだ。本著は、人類史上初となった、ラッシュタクティクスによるナンガ・パルバート無酸素単独登攀の様子を克明に記録した作品である。

ポーラーメソッドが一般的だった時代と比べると、メスナーのやり方はまさに隔世の感がある。彼は僅か20キロのザック一つでナンガに挑み、単身ディアミール壁側から登り詰め、僅か6日で完登した。本著には登攀ルートが載っているが、ベースキャンプから僅か4回のビバークでやり遂げたのだ。凄すぎる。ポーラーだったら、まず10人くらいの登山隊を結成し、麓の村から100人単位のポーターを雇ってベースキャンプまで荷運びし、さらに10人くらいのシェルパを雇ってロープ工作をはじめ、8地点くらいのキャンプを設営し、メンバー10人のうち2人だけが山頂に立ち、それで全行程2週間くらい……そんな山行になっていたはずだ、多分。メスナーはそれを一人でやってのけた。

でも本著には自らの功績をひけらかしたり、傲慢なところは無く、どちらかというと普通のメンタリティの持ち主が、幻覚に悩まされ死に怯えながらもなんとか登りきる……といった雰囲気。
彼は弟と二人でナンガに登頂したこともあり、その時に弟を失っている。
単独登攀中には、疲労と高山病とで意識が朦朧としたメスナーが弟の幻覚を見たりする。
全体の雰囲気として、山行の描写の合間に延々と自身の内面を吐露し、精神と肉体の両面から極限状態に陥った人間がどうなってしまうのかを、克明に記録している。

ヒマラヤを征服するような登山家は私達からは遠く離れた存在だけど、メスナーを読むとなんだか親しく感じるのである。彼らも私達と何一つ変わらない人間で、ただ山が好きで、それだけだ。しかし彼らなりの哲学というのがあって、それが極めて困難な状況でも一歩踏み出す原動力になっている。
基本的にずっと死を恐れている。それにずっと息苦しい。でも何とか勇気と気力を振り絞って、少しでも前に進む。するといつしか山頂が見えてくる。それは登山に限ったことではない。皆、それぞれ自分自身にとっての山行があるのだと、メスナーは教えてくれる。


以上、個人的なノンフィクション山岳小説ベスト5でしたが他にも素晴らしかったノンフィクション山岳小説をいくつか挙げていきたいと思います。

小西政継『北壁の七人 -カンチェンジュンガ無酸素登頂記』
(小西政継は日本の先鋭登山を牽引してきたレジェンドなだけあって、物凄い記録をたくさん残していて、その多くが書籍化されている。ポーラー時代のレジェンド。)

トモ・チェセン『孤独の山 -ローツェ南壁単独登攀への軌跡』
(実は彼の登攀の真偽について議論が巻き起こったが、本自体はすごく良い。巻末に騒動の詳細まで解説されている。)

フリゾン・ロッシュ『ザイルのトップ』
(今気が付いたけど、これだけヒマラヤではなくアルプスの記録。アルプス関連も良い本たくさんあるのに何故かヒマラヤに偏る不思議…)

槇有恒『マナスル登頂記』
(8000m峰のうち、日本が初登頂を勝ち取ったのはマナスルのみ。でも当時日本中が沸いて、早速登山ブームが始まったそう。そのマナスル初登頂の記録。)


いつかまた山岳小説ブームが来ますように!


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