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欲深さ。

久しぶりに「ぶち壊したい衝動」に駆られている。 
「衝動」というのは、理由なく自分を駆り立てるので、始末に負えない。しかし、これを本当に何かをぶち壊すことにではなく、何か形にすることはできる。
理性というものが働くからである。
しかし、そちら方面へ方向転換して作ることに対して、現在その理性が働きすぎて、「作ってどうなるの?」っていう気分がある。
作ったからどうなるっていうんだ、とか。
しかし、この衝動の問題点は、ほおっておくと自分をぶち壊しかねないということである。
でも、こういう衝動というのは、ものすごい原動力なので、押さえておいていいものではない。どんな悪い動機でも、モノづくりには生かされるものなのである。
こういうことを書きながら、芸術というか表現というものの懐の広さをしみじみ思うのである。
いや、もちろん社会を批判したりするアートもあるけれどもね、そうではなく、ただ自分の感情をぶつけ続ける作品だってアートなんである。正しく美しいものだけがアートではない。ドロドロの叫び!もまたアートなのである。
自分が日頃淡々と生きているようにしているけれど、巻き上がる感情とかどうしようもなく悲しい時とかその意味を追求せずにただそこに叩きつけたい、と感じる時が、昔は本当にたくさんあって、それをしないと死ぬ気がしていた。息を吐くように何かを表現していた。。。
その時は常に泣き悔やみぐちゃぐちゃな感情と共に作品はあった。
それを続けたら死ぬな、と思ったので、方向転換をしたのだけれど、ふと、ね、なんだろな、そうやって作品に自分をぶつけられなくなった時に、何かが死んだような気がしていてね。
なんかその部分が今自分の中で腐って臭ってきているような気がする。
「作品なんて所詮は自分のうんこ」と友達は言ったのだが、うんこで良かったのだよな。。って。そんなに美しくする必要はなかったんだよ。。
うんこをうんことして認められなくなって、うんこを金に仕立て上げて、光らせてやろうとか考えてしまってからが、何かがおかしくなってきたような気がする。
臭くてドロドロしていて、でも、なんか突き放してキレそうな何か。。。そういうのは、もしかしたら若い時にしかできないのかもしれん、けれど。
誰からも素敵ねーとか言われるものが自分にとってサイコーって思えるものではないことはよくわかっていて、しかし、そうなりたかった自分が自分のサイコー部分を蓋して埋めたのである。埋めると同時に社会的なあれこれが自分をこれまた社会的にした。と、同時になぜか感情がどっかに行った。
フラットにしたんである、無理やり。
「エモい」とは昨今の言葉であるが、その「エモい」を感じることが極端になくなってしまった。
自分の感情はどこへ行ってしまったのか、いや、そもそもなかったのかもしれない。。と、実はここ数年思っていた。年齢も年齢だし、きっと枯れてこのままフラットに行くんだろうな、そのまま死ぬんだろうって。
そこそこに楽しくて、そこそこに美味しくて、そこそこに生きて。
そんなんでも、人生は終わる。
「エモい」ことなんかなくってもいい。
もうやり尽くしたし見尽くした、じゃないか。
心踊ることなんかないんだよなぁ。
って。
でも、その、自分自身に響く「エモさ」というのは、ものすごく特殊で。
ただ、それに見合うものがないだけで、本当はそれに出会いたいと思っているような気がする。
出会うことを諦めきって、しまっている。
探しもしていないのに。

「生きていていいのだろうか」と何度も思いながら、どうにか生き続けてきたけれど、その生きていてもいい、と思えた理由はなんだったんだろう?
自分を生きていてもいいと許せた出来事はなんだったんだろう?

いつでも、爆発的に、何か、花開くような、感覚がこの世界に際限なく広がって。。。その感覚に出会う時、自分は生きていて良いのだと、思えたような気がする。

それは、その「ぶち壊し衝動」と似て異なるものである。

今、思い出した。

「花開く」。

そして宇宙と繋がる。
すべてと一体になる。

そう書くと、本当に怪しい世界なのだが
薬とか大麻とかなくっても、容易にその世界はすぐ近くにあるんだ。

自分や世界を傷つけてまで、生み出す世界感と
ただ、その中で「在る」というだけで生み出すことができる世界観は
雲泥の差だ。

でもなんだかそれを混同していた。。

面白い。

でもね
裏と表。
だから。
私はどちらも愛したい。

片方を捨てたくない。

欲張りだから。


欲望に忠実に暴走させてみたい。


愛と憎しみと自己卑下と自己愛を両手に抱えて
走り抜けたい。


罪深い、な(笑)。

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