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小夜の中山夜泣き石

さよのなかやまよなきいし

さよのなかやまよなきいし

子供の頃から、まるで呪文のように、小夜の中山と夜泣き石をセットで覚えていた私だが、「小夜の中山」とは何なのか、実はわかっていなかった。

なぜそんなに「小夜の中山夜泣き石」を覚えているかというと、「子育て飴を買ってもらえるところ」だったからだ。

昔、まだバイパスがなく、東名高速以外では、島田掛川間は旧国道一号線を通るしかなかった。

その旧国一沿いに、小夜の中山夜泣き石の飴を売っているお店があった。
石自体をを見に行ったのは一度きりだったが、その前のお店で、通るたびに、子育て飴を買ってもらっていた。

先日水蝸牛さんの記事を見て、そーいえば静岡にも飴で赤ちゃん育てるお話あったな、と思い出しました。

飴で赤ちゃんを育てた話が残っているのが、小夜の中山です。

先日油山寺、法多山に行った後、その夜泣き石をもう一度見に行ってみようと思い、私は国一バイパスを降りて、旧国一に出た。
(この辺りの人は、国道一号線のことをコクイチと言います)

すると、小夜の中山はこちら
という看板がありました。

その細い道を曲がると、道はどんどん山を登っていきます。
どこまで登るんだ?
本当に合ってる?
小夜の中山ってどこ?

すると一番高いところを尾根沿いに走る細い道に突き当たった。

旧東海道?
こんな山の上?

右はこの先通行不可って書いてあったので、左に進んだ。

車一台通るくらいの道幅。

結構高いところなのだけど、下が見えないので伝わりにくい。
標高は252mとのことです。

走ってすぐに、小さな祠があった。

小夜の中山 白山神社
と書いてあった。

小夜の中山ってここ?

小夜の中山公園はこちら
と矢印があったので、さらに進む。

すると、お店がある。
普通の商店という感じではない。

小夜の中山公園は、この店の前だった。
看板がありました。

小夜の中山峠?

小夜の中山とは、ある一定の場所ではなく、峠のことでした。
お店から、一人のおばさんが出てきて、パンフレットをくれて、色々説明してくれました。

このパンフレットの絵は、歌川広重の東海道五十三次の浮世絵かしら?
昔、永谷園のお茶漬けの素に、東海道五十三次浮世絵カード、入ってましたね。

小夜の中山峠は、東海道の日坂にっさか宿(掛川市)と金谷かなや宿の間にあり、箱根峠、鈴鹿峠と合わせて三大難所と言われる急な坂が連続する険しい峠でした。

パンフレットにある急な坂そのもので、坂の下の小学校に通っていたそのおばさんは、雨で滑りやすい日などは、草をつかんで降りなければいけなかったと言っていました。

その坂を見てみたかったけれど、歩いてはいくには、結構距離があったようですし、どうやら夜泣き石とは逆方向。
雨も心配でしたので、今回はあきらめました。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
なんて言われますが、大井川のすぐ西にも、箱根並みの難所があったんですね。
昔の人は大変だったなあ…

おばさんがいたそのお店、実は「扇屋」という古くから続く峠の茶屋だったんです。
今は、観光用に土日祝日だけ開いているとのことでした。
江戸時代、この周辺には多くの茶屋があったそうで、それぞれの店で、「飴の餅」を売ることが幕府より認められ街道の名物となっていたようです。

扇屋の前の小夜の中山公園は、以前この近くの久延寺が戦火で焼失した時に、多数の経巻が灰になり、埋められた場所とのことです。
公園の前には、西行の歌碑があります。

あれ?写真撮ってない。
撮ったよね?
あれあれ? ない‼️

看板だけ撮っていました。

実は、この峠、難所とはまた別の顔があります。
それは、和歌・俳句の名所だったんです。

そういえば、ここまでの道の各所に、和歌などが書かれた石碑がたくさんありました。
小夜の中山を詠み込んだ和歌は、勅撰集だけでも40余首あるそうです。
難所ではあるけれど、その分峠からの眺望は素晴らしかったようです。
この辺りは、お茶の産地。お茶の緑が映える五月は特に美しかっただろうと思いました。
今とはまた違う景色が広がっていたとも思います。

この辺りは、江戸時代どんな風景が広がっていたのだろう・・・

道は当然舗装されない土道であっただろう。
ここを江戸から京都、大阪、伊勢などに行く人々や、参勤交代の行列などが通ったと思うと感慨深い。
茶屋が立ち並び、そこで一服している旅人。お茶を出す娘(おばさん?)

想像しようとすると、時代劇の風景になってしまう。

静岡県内には、あちこちに旧東海道が残っていて、その面影を残しているところがたくさんあります。
いつかそんなところを歩いてみたい、かねてから思っていました。
この小夜の中山峠も、いつか、東の青木坂(箭置やおき坂)から、西の沓掛くつかけ坂(二の曲り)まで(どちらもすごい坂らしいけど)歩いてみたいと思いました。

ちなみに、ここから金谷宿にいく手前の牧之原には、当時の東海道の石畳も残っています。(そこは昔行きました)

なんということでしょう・・・
夜泣き石まで行かずに、1800文字超えてしまいました。
この続きは、コチラ

この日一日で、どこまでひっぱるんでしょうねえ・・・

記事はここまでですが、興味がある方のために、小夜の中山を詠んだ和歌等をいくつか紹介します。
この和歌から、当時の小夜の中山を想像してみてください。
(当時は、さやのなかやま とも言われていたようです)
和歌に関心のない方は、無理に読まなくてもいいです。

年たけてまた超ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山 (西行法師)

風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな (西行法師)

旅寝するさやの中山さよなかに鹿も鳴くなり妻や恋しき (橘為仲朝臣)

旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり (衣笠内大臣)

雲かかるさやの中山超えぬとは都に告げよ有明の月 (阿佛尼)

甲斐が嶺ははや雪白し神無月しぐれてこゆるさやの中山 (蓮生法師)

東路のさやの中山なかなかになにしか人を思ひそめけむ (紀友則)

ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れね人をさやの中山 (藤原家隆朝臣)

道のべのむくげは馬にくはれけり (松尾芭蕉)

東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲井に世をや尽くさん (壬生忠岑)

命なりわづかの笠の下涼み (松尾芭蕉)

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり (松尾芭蕉)

甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山 (読人不知)

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