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私たちの10年後の未来を決める「フレーム」の威力について。

ジョージ・オーウェルによって書かれた『1984年』という小説をご存じだろうか?

その小説の中の人々は"ビッグブラザー"という独裁者の支配のもと、24時間家の中にいるときでさえ、すべての行動と言動を監視されている。

民間人の中にも「思考警察」というものが紛れ込み、国家に対して否定的な考え方を持つものは即収監され、国家に従順なものは優遇される。

物資は常に不足しており、国民は貧しい生活から抜け出すことができない。

支配者にとって都合がいいように歴史は書き換えられ、人々が深い思考ができないように言葉は少しずつ消されていく。

"2+2=5"が正しいと国家が決めれば、それが正しいとされる世界だ。

小説の世界は極端なディストピアを描いているかもしれないが、共産主義国家の行きついたなれの果てを表している。

私たちは自らの「フレーム」に無自覚である

今の日本に住む私たちにとっては共産主義と聞いても、ほとんどの人が自分とは関係のない話だと思うだろう。

しかし、思いもよらないところで共産主義を推し進めることに加担している可能性があると言ったら不思議に思われるだろうか。

私たちは何かを考え行動を決定するとき、その決定を下すに至った価値観、つまり自分が乗っかっている"設定"を「フレーム」と呼ぶ。

あなたが自分自身の「フレーム」に無自覚であると、その品質次第では全く予想もしなかった取り返しのつかない事態を招いてしまう恐れさえある。

これはどういうことか。

例えばあなたが「自分は生涯貧しいままだ」というフレームに乗っているとする。

そのフレームに乗っている人はおそらくこう考える。

「お金持ちからはより多くの税金を徴収した方がいい」

実際に今の日本では所得税に対して累進課税をかけることでお金持ちからはより多くの税金を徴収している。

2000万円を超える収入がある人は他の税金と併せるとその半分ぐらいは税金として納めていることとなる。

このことの何が悪いのか?と思われるかもしれないが、一度立ち止まって考えてみてほしい。

国家が税金という名目でお金持ちからより多くのお金を吸い上げることで全体をフラットにならし、それを国民全員に再分配するというメカニズムはまさに共産主義の思想そのものではないだろうか。

現在の民主主義の性質上、政治家はより多くの人からの支持を集めることが最大の目的となる。

もしも「お金持ちからはより多くの税金を徴収した方がいい」と考える人が多ければ多いほど、共産主義の思想は支持されることの裏付けとなり、政治家はそちらへ舵を切っていくことになる。

よって間接的にではあるが、共産主義がもたらすディストピアに加担しているということになることはお分かりいただけると思う。

そのことが良い悪いという議論をここでしたいわけではない。
また、国家が集めた税金を上手に使っているのかそうでないかを検証することは別の機会に取っておこうと思う。

私がお伝えしたかったことは、私たちは自分たちが持つ価値観に対してあまりに無自覚であるがゆえに、それがもたらす10年後、20年後の結果に無防備になってしまっているということだ。

言い換えると、あなたがどのような「フレーム」に乗っているかを認識して自覚することによって10年後、20年後の結果が予測できるようになることが、望む未来を引き寄せられるかどうかにかかっているのだ。

なぜ私がこのことをあなたに伝えようと思ったか。

それは私自身が周囲との関係性を最悪なものにしかねないフレームに乗ってしまっていたことに気づいたからだ。

私が無自覚に持っていた恐ろしいフレーム

それは昨年末のことだった。

そろそろお正月を迎えるというタイミングで、親戚の子供たちのお年玉についてどうしようかと悩んでいた。

それは本当にお年玉を上げることが子供たちのためになるのかな?という思いがあったからだ。

〇〇年生にはいくらで△△年生にはいくらという考え方も、年功序列や学歴社会といった息苦しい社会を表しているように感じ、そこに風穴を開けたい気持ちがあった。

そしてこのイベントをより楽しいものにするためのアイデアを考えてみようと試みた。

そこで浮かんできたアイデアは簡単に言うと、「子供たちに何が欲しいかプレゼンしてもらい、内容に応じた金額をあげる」というものだった。

これがとんでもないアイデアだということは、とある人からのフィードバックをいただくまでは全く思いもよらなかった。

その方は、このアイデアの裏には私が無自覚に持っている3つのフレームが存在していることを私に教えてくれた。

まず一つ目が「周りと違うことをしてはいけない」というフレームだ。

別にお年玉をあげようがあげまいが本来は自由であるにも関わらず、過去の慣習に従ってお年玉をあげなければいけないという思い込みにはまっていた。

そして二つ目が「損をしたくない」というフレームだ。
お年玉をあげなければいけないなら、せめて自分が納得いく形であげようという考えは、子どもたちのことを第一に考えているのではなく、自分が気持ちよくなることを第一に考えている証拠だ。

この二つのフレームがバッティングしている中で何とか編み出したアイデアだったのだが、これが最悪だった。

親戚の子供は4人いたのだが、私が用意しようとした金額は5万円だった。

要は上限が設定されていたということになる。

つまり「上限が決まっている競争に子供たちを参加させている」ということとなる。

これはまさにわたしが息苦しいと感じている"定員が決まった中で競争をさせる"という構図そのものだったのだ。

このことに気づいた私は、自分自身のあまりのみじめさにショックを受け、そこから立ち直るまでに3日間かかった。

この経験を経て、私たちはいかに自分が持つフレームに無自覚であるかということを思い知らされたのだ。

このことに気づかずに子供たちとの関係を続けていたらどうなっていただろうか。

予め誰かに決められた定員を競争によって勝ち取ることでしか生きる方法がないんだ、と思ってしまった子供たちの10年後はどうなっていただろうか。

そしてその信念を持つきっかけとなった私は子供たちにどんな顔を向けられるだろうか。

私は人を生きやすくさせるどころか人を生きづらくさせるフレームを持っていたのである。

この経験はとても苦い経験であった。

みなさんには私と同じ過ちを繰り返さないよう、一度ご自身が持っているフレームを認識してみてほしい。

そして、それが10年後、20年後に望まない結果をもたらす可能性があるとしたら思い切って捨て去る勇気をもってほしい

この1年で私が採用してみたいフレーム

この記事を書いている今日は1年のスタートとなる春分の日だ。

最後に私がこの1年をかけて採用しようとしているフレームを紹介したいと思う。

それは「自分でものごとを創造する」というフレームだ。

私たちは誰かが用意してくれたものを"消費"することに慣れすぎてしまっている。

例えば自分たちでツアープランを考えずに旅行会社にすべて決めてもらうという行為がそうだし、自分で農作物を作らなくてもスーパーに行ってお金を払えば食べ物を得られる。

AI化が進みますます効率的な社会になっていくことが予測される中で、私たちは"消費"するということに慣れすぎるあまり、人間本来の"創造"する力を失いつつあるのではないかと感じている。

そのフレームにおいて大きなプロジェクトとなりそうなものとして「独立国家を作る」ということを考えている。

つまり、憲法も法律も選挙もそしてお金さえも自分たちの手で生み出してみるなら?という仮の設定で世の中を見渡してみて、自分ができる小さなことから"創造"することを始めてみようと思っている。

プロジェクトの第1弾として、日本の食文化を守るために、地域で持つ在来種子を中央集権ではなく農家をつなぐネットワークを構築することで分散管理するプロジェクトを立ち上げようとしている。

成功できるかどうかは現時点で全くの未知数ではあるが、この物語の続きはまたの機会に報告しようと思うので、ぜひ楽しみにしてほしい。

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