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私たちの人生に意味はあるのか?黒澤映画『生きる』を観た感想。

人生に意味はあるのだろうか?

この問いは長い間、私たちに哲学することの楽しみや葛藤を与えてくれている。

皮肉的な人なら「人生に意味はない。ただの暇つぶしだ」と答えるだろう。
妄信的な人なら「私たちは生きる意味を持ってこの世に生まれてきたのよ」と答えるだろう。

もしかしたら日々の忙しさに追われて、そんなこと考えたことがないという人がいるかもしれないし、人生に意味を見出せずに悩み苦しんでいる人がいるかもしれない。

人生に意味はあるのだろうか?もしもそんな問いが浮かんだら是非見て欲しい映画がある。

それは1952年に上映された黒澤明監督の『生きる』だ。

今となっては70年!も前の作品だが、変わらず私たちに「生きる」ということは何たるかを示してくれている。

あらすじ

まずは簡単にあらすじを追ってみようと思う。

主人公ワタナベは役所の市民課課長だ。

その仕事は次から次へと来る山積みの書類にハンコを押していくだけの、時間だけが取られるえらく退屈なものだった。

それが20年も続いているのである。

ある日ワタナベは死に至る病を患ったことを知る。

ショックを受けたワタナベは同居している息子夫婦にそのことを伝えようとするが、彼らが自分の遺産を目当てに家を購入しようとしていることを知りさらにショックを受ける。

途方に暮れたワタナベは仕事を無断欠勤した上、夜の街へと消えていく。

しかしそこにはワタナベの心を満たすものはなかった。

そんな中、仕事に嫌気が差している同僚の女性にたまたま道で出会う。

いつも明るい彼女と仲良くなったワタナベはついに病気のことを伝え、残りの人生どのように送れば彼女のように生きられるのか問うてみた。

彼女は「ただ働いて食べてるだけよ。」と素っ気なく答え、ワタナベは肩を落とす。

すると彼女は自分が作ったうさぎのおもちゃを取り出し「これを作っていたら日本中の赤ん坊と仲良しになった気がするの。課長さんも何か作ってみたら?」と提案する。

ワタナベはふと何かを思いついたようにおもちゃを抱え、興奮し駆け足でその場を去っていく。

この後の展開についてはここでは書かずに、映画を観られる方の楽しみに取っておきたいと思う。

"わたし"とは何か?

ワタナベは数か月後に亡くなってしまうのだが、その葬式に集まった同僚たちがワタナベについて語り合うシーンは印象的だ。

人々が異なる立場や視点を持って、賞賛したり時には批判したりすることで、ワタナベという人物像の輪郭がぼんやりと浮き上がってくる。

これは同じく黒澤明監督の映画『羅生門』でも観られた構成であり、想像力がかき立てられとても面白い。

仏教用語に"縁起"という言葉がある。これは「他との関係が縁となって生起するということ」だ。

私たちが"わたし"というものを定義しようとするとき、例えば「〇〇の息子である」とか「趣味は△△だ」というように、わたしを取り巻く周囲との"関係性"とその"重要度"によって定義している。というよりそれ以外に定義する方法は存在しない。

つまり、予め定まっている明確な"個"というものはなく、他との関係性によって"わたし"という存在が浮き上がってくるのだ。

黒澤明監督がこの映画を通じて最初の問いに対する答えを示してくれているとするならば、その答えはこのようなものかもしれない。

「人生に意味はない。しかし周囲との関係性において自らが定義すれば、人生に意味はある」

ワタナベが成し遂げたことに奮い立った同僚たちであったが、職場に戻ると以前と変わらない日常を過ごしていることは興味深い。

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