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ナイトバードに連理を Day 2 - A

(これまでのあらすじ)
犬吠早矢(いぬぼえ・はや):男子高校生。見知らぬ女子生徒から『胎金界は実在する』という意味不明のメッセージを受け取った。

(1956字)

 ひどい夢だ。早矢は夢の中で冷静に評した。

 高熱に浮かされ寝込みながら眠ることもできず、かと言って目を開けて起き上がる気力もないときの記憶を、さらに十倍悪くしたような気分だった。瞼の裏で眩暈を覚え、耳から入ってくる人の声はそう認識しながら聞き取ることができず、ただ重い頭痛と吐き気だけがはっきりしていた。

 普段よりずいぶん早く、日を跨ぐ前に睡魔に敗れたと思ったらこの悪夢だ。起きていた間の最後の記憶は、スマホの画面。中東のどこか、アレド地区という所で爆撃があり、数万人が消し飛んだという一ヶ月前の記事を眺めていたところで寝落ちしたらしい。

 悪夢もそのせいだ、さっさと覚めてくれと早矢は念じ、願ったが、一向に実現する気配はなく、時間は緩慢に過ぎて行った。

 そして唐突に瞼をこじ開けられた。

「なるほど。これだけでも高く売れる」

 早矢はその声と、薄暗い天井の下で自分を覗き込む男の顔、埃っぽい空気と目を押し開く指の感触をはっきりと知覚した。しかし抵抗も、抗議の声を上げることもできなかった。まるで体の形の容器に押し込められているかのように、指の一本も動かなかった。

「だが死体を雇う気はない。買い手を紹介しろというなら力になるが」
「ただの神経石化だ。医者に見せればすぐに治る」

 早矢の瞼を開き今は手を離した男に、また別の声が答えた。そちらもすぐ傍に立っているらしいと早矢は開いた眼で見回したが、その姿を視界に収めることはできなかった。少なくともその声色は、初めの男よりはるかに若い、声変わり前の少年の背格好を想像させるものだった。二人の会話は早矢の身体の上で続いた。

「つまり、そうする価値がこの死にぞこないにあることは理解しているわけだ」
「だからこそあんたに、火事場泥棒の猩々どもの中でも新参のあんたに声を掛けた」

 少年の声が言い切ると同時に、早矢の視界の右側に銀色の影が侵入した。右目の真上に現れたそれは、細く薄い指に握られた分厚いナイフだった。本能的な緊張を覚えながらやはり身動ぎすることもできず、早矢はただ目を細めた。男が鼻を鳴らして笑った。

「それを落として希望を失うのはお前の方だろう、狢。交渉の形にもなっていないぞ」
「そうでもない。この狢はどうせ今夜には死ぬ。僕だってせいぜいあと四、五日の命だ。それが少し早まったところで困りはしない」

 俺は困る、勝手に決めないでほしい。唇も喉も動かない早矢の思考は声にならず、少年の言葉を制することはできなかった。

「あんたがこの狢を欲しいと言うのなら、他の狢も雇ってもらう。それが条件だ」
「落ちぶれた同族を助けろとは殊勝なことだ。そこまでモッカに戻りたいか」
「封鎖された祖国に戻りたいと思うことがおかしいか」
「おかしくはないさ。お前らの宗教やら愛国心など俺の知ったことではないが、そんな狢は五万と……いや、それほど生き延びてはいないだろうが、ともかく金などいらないから連れて行けという連中は他にもいる。つまり、残念だが、これ以上の人手は必要ない」
「そうか。こちらも残念だ」

 早矢は慎重に瞼を閉じ、痛みがないまま夢から覚めることを祈った。その期待は裏切られた。

「まあ待て。お前らは西方商会にいた狢だろう。人手はいらないが、その知識は役に立つ」

 男の声に慌てた様子はなかった。苦労して再び目を開けた早矢は、少年の吐いた小さなため息を確かに聞いた。

「是非とも雇おう。ただし三人だけだ」

 男が言うと、少年の喉が異物を詰まらせたような音を立てた。

「……待て、ダメだ。四十人はいる。せめて半分は……」

 少年の声は焦りを隠しきれていなかった。ほんの一瞬、緊張を解いてしまった少年の劣勢は早矢の耳にも明らかだった。

「市場で西瓜を買うわけじゃない、値段の交渉はしない。三人、それ以上は帰りの席がない。お前とそいつを除いてあと一人だ」
「……僕は」

 男が余裕を誇示するように鼻を鳴らした。

「氏族の命運が掛かった状況で、お前のような子どもを交渉役に立てるわけがない。大方、この夜目のことも年寄り連中には話してないんだろう? ああ、賢い判断だ。お前らの言う”天罰”で心の折れた老いぼれ共に任せれば、喜んで夜目だけを差し出すだろうからな。その度胸を買ってやる」

 男が何かを放り投げた。少年の前に落下したらしいそれは、袋の中で金属が擦れるような音を立てた。

「50セーモンある。報酬じゃない、支度金に使え。夜目の従者がそんな無様では、出資者に見せても説得力がない」

 男の言葉の途中から、早矢には近づいてくる複数の足音が聞こえていた。少年は歯の隙間から漏れ出たような溜息を吐き、早矢の顔からナイフを遠ざけた。

 現れた男たちに担がれ、早矢は薄暗い空間から運び出された。建物の外、真っ青に晴れ渡った空はあまりに眩しく、早矢は眩暈のままに気を失った。 【Day 2 - Bに続く】



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