見出し画像

武家故実修正第1条:AD1183加賀国篠原

 高橋判官は馬を降り、ぬかるんだ地面に腰を下ろした。兜を外すと、湿気た微風に髷と髭が揺れた。
 追手の木曽、帰京の途を先行する平家、曇天下に広がる四方の湿地には敵味方どちらの影も形もない。目の前には一騎の武者がいるが、これは敵でも味方でもない。
「やらないんすか」
 入善小太郎を名乗る武者は馬上から訊ねた。汗と泥に汚れたその青白い顔を見て、高橋はンフッと笑った。
「やらんね。僕には君くらいの息子がおる、おった。そんな首は取れん」
「それは、どうも」
 小太郎は高橋に習って馬から降り、腰を下ろし、大きなため息をついた。

 潰走する平家勢から高橋を大物と見定め、その後を追ったところまでは良かった。気付けば味方とはぐれていた。いざ目の前にした高橋の眼光と体躯は明らかに歴戦の勇者で、つまり小太郎には大物過ぎた。命を拾ったという自覚に震える手を、小太郎はじっと見つめた。
「――武士の情けはありがたいですけど、すぐに味方が追いつきますよ」
「ほな逃げるよ。まだ遅滞戦やらな。本隊に戻ってもう一戦、能うればさらに一戦、なんぼでも取り仕切って、うちの顔だけ大将を京に送り届ける。そのために死ぬ。それまでは死なん」
「凄いっすね」
 小太郎は率直に感嘆した。理屈も言葉の意味も理解できないが、やはり京の武者は立派だと思った。この男は今より先を見ている。将としての視野が、自分のような小者とはまるで違う。
「負けとったら世話ないがな」
 高橋は大口を開けて笑った。小太郎も笑ったが、同時に涙が溢れた。緊張の反動、生き延びたという安堵、その情けなさ、本物の武者の眩しさ、それらが綯い交ぜになった涙。小太郎はこれ以上無様を晒すまいと天を仰いだ。
 真っ白い雲に埋もれた日輪は位置さえも判然としない。足元は。元より水はけの悪い北陸道はさらに人馬にこねくり回され、ほとんど田んぼのようになっている。
 混沌だ。混沌の間に、俺と高橋だけがいる。
 小太郎は視線を下ろし、高橋を居合で切りつけた。鮮血。

 不意を突かれた高橋はそれでも咄嗟に転がって躱したが、顎の先が二枚貝のように割れた。
「この餓鬼。人の情けを」
「いや、なんか……あなたは良い敵で、だからこそ討ちたい気がして。すみません」
 怒声を上げた高橋は、据わった目で訥々と語る小太郎をしばらく睨み、結局は頷いた。
「それはそうやな。やる方がらしい」
「ですか」
 小太郎は再び高橋に飛び掛かった。

『平家物語巻第七 篠原合戦』より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?