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神社がある意味?それは日本人として感謝を忘れないためにある

日本は神様に護られてきた国です。日本人は海や山などの豊かな自然の中で生活を営んできました。

一方で自然は脅威にもなります。地震・豪雨・洪水・噴火・津波・落雷など、多くの自然災害に見舞われてきました。科学が発達していない時代の人にとって、そんな自然現象が起きるメカニズムなど知る由もありません。自然災害が治まり世の中が平穏になるようにと祈ったことでしょう。

また日本人は、古くから山や木々や岩などの自然物に神様が宿ると考えられてきました。あらゆる自然物を神と崇めてきました。それが八百万の神という考え方でもあります。

日本各地の至るところに神様を祀る神社があることは日本各地に無限におられる八百万の神が祀られているという証拠でもあります。そして日本人の生活に慣れ親しんできた場所が神社なのです。

今でもお正月には多くの人が神社へ初詣に訪れます。この一年を無事を神様に祈願します。日本人の心のよりどころとなる神聖な場所なのです。

しかし今、神社が減少傾向にあります。後継者不足や経営難などの諸問題で右肩下がりで減少を続けています。このままでは日本の伝統的な神道の消滅の危険性まではらんでいるのです。

神社がなくなるなんて、そんなことはないだろうと思われるかもしれません。しかし現実問題として少子化による人口減少は止まりません。そうなってしまうと神職に就かれる人も減っていきます。神社がなくなるなんて想像もつかないことですが、決して有り得ない話しではないのです。気がついたら自分の近所にあった神社がなくなっていたということが現実として起こりうるのです。

そうならないためにはどうしたらいいのでしょう。そんなことを考えていたとき思ったことが、日本人としてもっと神社に足を運ぶことが大切なのではないかなということです。神社の経営改善の手助けをするとか、多額の寄付をするとか、そんな大それたことはできなくても、一年に一度と言わずに神社に足を運び、お賽銭を入れて、日頃の感謝のお礼参りをすることはできます。

できれば日本各地の神社に足を運びたいところではありますが、それが叶わないとしても地域にある神社に行くことは決して難しいことではありません。

幸せスタイル神社noteは実際に神社に行き、可能な限りそこの宮司さんとお話しする機会を設け、そこに祀られている御祭神がどの神様なのか。そこに鎮座した背景は何なのか。どんな御利益があるのか。などを紹介していきたいと思います。皆様が神社に行かれる参考にいただければと思っています。

「あそこにある神社にはそんなエピソ-ドや御利益があったんだ。今度行ってみよう」そんな気持ちになっていただけたらとてもうれしいです。


記念すべき第一回目は「遠州のお鹿島さま」曽許乃御立神社(そこのみたちじんじゃ)をご紹介します。


遠州のお鹿島さま 曽許乃御立神社

浜松市西区の舘山寺フラワーパークのすぐ近くに曽許乃御立神社はあります。この神社は正直いって地域の人以外の人には気づかれにくい神社でもあり、私も知人に教えてもらうまで知りませんでした。

曽許乃御立神社は茨城県の鹿島神宮に祀られている神様が分祀されました。古くから舘山寺周辺の人たちに「お鹿島さま」と親しまれてきた神社です。

ではなぜ鹿島の神様が、遠く離れた遠州の地に分祀されたのか?そのいきさつを聞いてみたところ、面白いお話しを聞くことができました。それはおよそ1200年のできごとです。

その話しの前に曽許乃御立神社の御祭神について書いてみたいと思います。
曽許乃御立神社の宮司さんにいろいろとお話しをお聞きました。そのお話しを中心に書いていきます。

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猛々しい剛剣の、雷の神様

曽許乃御立神社の御祭神は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)です。古事記や日本書紀に登場する神様です。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の神産みの中で火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)という火の神様を産んだ後に起きた悲劇でタケミカヅチは産まれます。

イザナミはカグツチを産んだ際に大やけどを負い死んでしまいます。イザナギは怒りのあまりカグツチの首を切り落としてしまいます。
このときにカグツチの亡骸から多くの神様が産まれました。飛び散った血からも神様が産まれました。

剣のつば際からしたたり落ちた血から三柱の神様が産まれます。甕速日神(ミカハヤヒノカミ)・樋速日神(ヒハヤヒノカミ)そして今日の記事の主人公タケミカヅチです。

タケミカヅチにはどんなエピソードがあるのでしょう?次からは古事記・日本書紀に残るタケミカヅチの活躍を見てみましょう。

出雲国譲りとタケミカヅチ

大国主命(オオクニヌシノミコト)が地上に造り上げた豊かな出雲国。
それを高天原から見ていた天照大御神(アマテラスオオミカミ)は出雲国を欲しくなります。オオクニヌシのもとに、出雲国を譲るよう伝える使者を遣わせました。

最初の使者、天穂日命(アメノホヒノミコト)は地上に降りるやいなや、大国主命になびいてしまいます。
次に天若日子(アメノワカヒコ)が遣わされますが、この神様は大国主命の娘、下照比賣(シタテルヒメ)と結婚し、やがては出雲国の我が物にしようと考え、何年経ってもアマテラスに何の報告もしませんでした。

派遣されたお二人とも、もてなされたりお嫁さんをあてがわれたりして居心地がよくなってしまい出雲国に住んでしまったのです。オオクニヌシに取り込まれてしまったのです。こういうことは今も昔も変わらずにあることなのですね。

いつまで経っても何の連絡もないことに業を煮やした高天原の神様たちはキジの鳴女(ナキメ)を出雲国に遣わせて、ナキメが鳴くことでアメノワカヒコに本来の任務を思い出さそうとしました。しかしアメノワカヒコは弓でナキメを殺してしまいます。その矢は鳴女を突き抜けて高天原のアマテラスの足下に落ちてしまいます。それを見た高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は、「アメノワカヒコに邪な心があればこの矢が当たる」と言いながら地上に投げ返し、アメノワカヒコは矢に当たり死んでしまいました。
(注釈:別天の神(コトアマツカミ)は天地の始まりの際に現れた三柱の神様です。タカミムスビは二番目に現れた神様で、主に地上の世界を平定した神様です)

そして三番目に派遣された神様がタケミカヅチです。剛毅であり剣の達人で圧倒的な武力を持つタケミカヅチは剣の柄を波打ち際に立てて、刃の上にあぐらをかきながらオオクニヌシに国譲りを迫りました。

その姿に恐れおののいたオオクニヌシと息子の八重事代主(ヤヘコトシロヌシ)は国譲りを承諾します。特にコトシロヌシはあまりの恐怖に逃げ隠れてしまったとされています。それだけタケミカヅチの武力は圧倒的だったのです。

しかしもう一人の息子、建御名方神(タケミナカタノカミ)は最後まで抵抗しました。タケミナカタは怪力の持ち主です。国を譲らんとタケミカズチに力比べを挑みますが、あっさりと負けてしまいます。

タケミカヅチの手につかみかかったタケミナカタですが、そのつかんだ手が氷の柱になり、剣となり、とても敵うような相手でないと逃げようとします。タケミカヅチはそんなタケミナカタの腕につかみかかり大きく投げ飛ばします。

タケミナカタは「これは敵わない」とその場から逃げ出してしまいます。タケミカヅチは追いかけます。そして追い詰められた先が長野県の諏訪湖です。そこでお互い仲直りをしたとされています。諏訪湖の周辺にある諏訪大社には御祭神としてタケミナカタが祀られています。

これが国譲りの物語の中に登場するタケミカヅチです。腕が氷になり、剣になるエピソードからも、タケミカヅチが「猛々しい剣の神様」であることがわかります。「波打ち際に剣を立てて刃先にあぐらをかいている」その姿はタケミカヅチの肖像画としても有名です。

最強の軍神でありながらも実は交渉上手な神様でもあるのです。交渉事のお仕事をされている人(営業関係とか)はタケミカヅチのお力をお借りするべく参拝に行かれると良い結果がもたらされるかもしれません。

神武東征とタケミカヅチ

神武東征に登場するタケミカヅチのエピソードについてみてみましょう。
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、後の神武天皇が国を治めるにふさわしい場所を見つけるために、日向の高千穂を発ち東に向かって旅をします。

この長い長い旅は苦難の連続でした。特に浪速(大阪)で待ち構えていた登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)との戦いでは、一緒に旅をしていたイワレビコの兄、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)が命を落としてしまいます。

「日の国の子たるものたちが、太陽が昇る東を向いて戦ったことが悪かったからだ。今度は東を背にして戦おう」と、敵の東側にまわり込むために紀伊半島を南下しました。

熊野の地(紀伊国南部)に向かったイワレビコの一行はそこで大きなクマに出くわします。霊力を持ったクマは荒ぶる神々の化身です。悪しき力で意識を失ってしまった一行を助けたのが、タケミカヅチの太刀とされています。

あわや全滅かというときに熊野に住まれる高倉下(タカクラジ)という神が剣を持ってイワレビコの前に現れます。タカクラジはアマテラスとタカミムスビの命を受けて霊剣を届けに参ったと告げます。イワレビコはその霊剣で荒ぶる神々の化身(クマです)を追い払い窮地を脱しました。「どのようにして剣を手に入れたのか」タカクラジに問いかけたところ、タカクラジは自分が見た夢のことを伝えたのです。

アマテラスとタカミムスビは、高天原から地上で苦戦しているイワレビコの様子を見ていました。そんな状況を助けよとタケミカヅチに命じます。しかしタケミカヅチは「自分が出向くまでもない。その代わりに地上(出雲国)を平定するときに使った剣を天から落とすので、その剣をイワレビコの元に届けなさい」とタカクラジにお告げがありました。

夢から覚めたタカクラジの家には剣が置かれていました。そしてお告げのとおりにイワレビコに届けたのです。この剣の名前は布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)です。フツは切る音のことを意味します。良く切れる剣の神様のことです。

その後、天から遣わされた八咫烏(ヤタガラス)に導かれ、大和の地を目指したイワレビコ一行は、兄の敵、因縁の相手ナガスネビコと相対し討ち取るのです。そのさいには背を太陽の登る東に向け勝利したとされています。

ヤタガラスに導かれながら各地の豪族を従わせていきます。そして大和を平定し、初代神武天皇として即位されました。


「神武東征の神話は歴史的に西から東へと日本の国土が広がり栄えていった歴史があります。大陸から人が渡ってきて、その人たちが西から東へと入っていったということを物語っていると思います。浪速のナガスネビコも元々は土着の人。ただし先に渡ってきた子孫だった可能性もあります。先に来た天つ神の子孫であるともとらえることができるかと思います。日本人の祖先は大陸から分断された際に取り残された人、黒潮に乗って南洋から来た人、遠い海からたどり着いた人、命がけの旅をしてきた人たちが日本人の祖先。有名氏族は渡来人が多いのです」
神武東征のエピソードにある日本人のルーツを宮司さんはこのように語ってくれました。

日本は大陸から分断したことは事実です。日本の国土の下にある複雑なプレート同士のぶつかり合いが南から島を引き寄せ、活発な火山活動が山を作り野を作り、今の日本列島の形となった事実があります。大陸から取り残された人。南洋から危険を顧みずにやってきた人。そして西から東へと広がっていった文化。今こうして豊かな国に住む私たちは、祖先の決死の思いを忘れてはいけないと感じました。

御神名から見る神様の性格

神様の名前、御神名について教えていただきました。宮司さんのお言葉を極力そのまま書いてみたいと思います。

「御神名はその神様の姿そのものを写しています。「タケミカヅチ」古事記では「建御雷之男神」猛々しい雷の男の神様を表しています。この神社では「武甕槌命」これは日本書紀で書かれている御神名となります」

「甕(ミカ)はお酒を入れるかめ(土器)のことです。これはかめの形から舟を表しているのではないかという説もあります。茨城における漁師などの航海技術を含めた「海上幸運の信仰」を意味するのではないかという説もあります。これは藤原氏(中臣鎌足が大化の改新以降に藤原姓を与えられた)が春日から鹿島に行き、そしてまた春日に帰る旅の際には海上運行が間違いなくあったと思われます。そうでないとその当時何年かかるかわからない旅となってしまいます。その当時に行けるだけの航海技術を持った人たちの象徴的な当て字とも考えられます」

「またお酒や機織りなどを造る新しい技術が海の向こうから甕に乗って(舟に乗って:かめは舟を表す形だとも言われています)流入してきたことが、この甕という当て字から想像することができます。最先端の技術を取り入れた古代氏族の思いが込められているのかもしれません」

「神話に基づくとすると建御雷之男神の当て字の方が、よりタケミカヅチの性格を表していると思われます。「雷の如く剣が天から降りてきた猛々しい神様」であることを表しています。また地震封じとしてナマズに剣を突き刺したタケミカヅチの絵は有名です。地震が多かった土地柄から、地面の下で暴れるナマズをタケミカヅチが剣を突き刺して防いでいるのを表した絵です。また鹿島神宮に行くと要石という石があります。この要石は地震を封じている石のことです。掘っても掘っても石の先端が見えないほどに地面に打ち込んで地震を封じ込んでいる神様であることが鹿島神宮の一番の有名な御由緒です。肝心要の要はここからきています」


つまり御神名が神様の性格や護ってくれること、与えられた使命などを表しているのです。その字を見ることでどんな神様なのかを推測することができるそうです。確かに天照大御神は天を照らす神様、世を照らす太陽の神様であり、月読命は月の神様、夜を治める神様です。稲という字があてがわれた神様を祀っている神社はその昔稲作で栄えていたことが想像できます。歴史を知ることって面白いですよね。

曽許乃御立神社に武甕槌命が祀られている理由

「武甕槌命は鹿島神宮の主祭神として祀られていますが、その起源については諸説あるとされています。中臣氏が鹿島神宮の祭祀を移譲されたのですが、その前からこの地に勢力を持っていた古代氏族が祀っていたのが武甕槌命で、その後絶大な力を持った中臣氏が祭祀をそのまま移譲されたということが現実だと思いますね」

「中臣鎌足の出生地は茨城だとされています。鹿島神宮はその当時からタケミカヅチを主祭神、武神として祀っていました。大化の改新後に藤原姓を与えられた鎌足の息子の藤原不比等は、春日の御蓋山(みかさやま)に鎌足の出生地の一番の神様、武甕槌命をお迎えするために春日大社を建てました。そして武甕槌命をお迎えするために春日から鹿島への旅に出ます。鹿島神宮で御神体にお御霊をいただき、そのお御霊を持って都に帰り、強い神様のもとで国を守るための春日大社を建てました。その帰り道の途中にこの神社(曽許乃御立神社)を見渡すことができる根本山で休憩をされたのです。(春日大社が完成するのはこの1年後です)」

「この話しを聞いたここ土地の者が「我々もその尊い神様にお守りしていただきたい」とお願いしました。それならばと根本山で休憩していた旅の一行の代表が根本山の頂上から見渡したところ、綺麗な湧き水からできた池を見つけました。

「であるのなら、そこなら許そう」と湧き上がる池あたりを指したのです。つまりそこならいいよと御見立てしたのです。

この話しが「そこのみたち」というこの神社の名前の由来です。

「そこなら許そう」と言ったのが誰なのかは詳しい記述はありません。おそらくは一行の中の誰かにご神託を賜わったのだと思います。神様にお伺いを立てたのでしょう。神様をお祀りするわけですからそのような行為があったと想像できます」

「ただこの話も色々な説があって、浜名湖の入り江に流れ着いた金色の御幣があまりにも神々しかったからここに神様を祀ったという説もあります。しかし春日大社の人たちも根本山の休憩の話しが正しいと思うよと言っています」

「元々この土地は、湧き上がる池以外は森もない何もない原っぱでした。お御霊を持って帰る途中に根本山で休憩しなければ、この土地は今も池以外は何もない場所だったかもしれません」

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地図


地図の見ていただくと根本山と曽許乃御立神社の位置関係がおわかりになるかと思います。根本山から見えた湧き上がる池が「御手洗池」です。池の近くには大きな「浜名湖」があるのにもかかわらず御手洗池が目に入ってきたということは、それだけ湧き上がる泉が輝いていたことなのでしょう。

御手洗池

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御手洗池は水がとても綺麗な池です。しかし宮司さんがおっしゃるには、このエリアは灌漑用水を通すための側溝が通っていて、それをやったために池が淀み始めてしまったそうです。濁り始めようとする池を元に戻すために市との交渉に苦労されておられます。「それを改善するためにもっと交渉していく。守っていく」池を守るために市に対して交渉続けていく強い決意を宮司さんの言葉から感じました。

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御手洗池には「こいねがい札」が用意されています。水に溶けるこのお札に願い事を書いて池に浮かべて鯉に祈願すると願いが叶うとされています。古来の中国には滝を登り切った鯉は年月が経つと龍となり天に昇るという伝承があります。そんな勢いのある鯉に祈願してみると願いが叶うかもしれません。水に溶ける紙は環境にも配慮されているので是非やってみてください。

私もね、こっそりと願い事を書いて池に浮かべてきましたよ。

曽許乃御立神社の形代で奇跡が起きた!

この神社には「形代」と「神遣布(やらいぎれ)」というものがあります。形代は陰陽道からきていて、身体の悪いところに人の形をした紙を当て撫で付けて、川に流すことで災厄を肩代わりしてくれるとされています。タケミカヅチと直接の関係はありません。

形代は雛人形のルーツです。平安時代には紙で作った人形を川に流す流し雛というものがあり、災厄の身代わりとなってもらっていました。当時の乳幼児の死亡率は非常に高く、我が子が健やかに育つことを願っておこなわれていた風習です。春にその形代を川に流し(ひな流し)厄を祓っていました。それがお雛様の源流であり3月の節句に女の子がお雛様を飾るようになりました。わが子が無事に成長するように、代わりに悪いものを背負ってもらう。その紙がおひな様になったのです。

私が初めて曽許乃御立神社に来たとき、前々から痛かった腰を形代で撫でてみました。するとそれ以降、腰の痛みが和らいだのです。特に仰向けになった状態で立ち上がろうとするとあまりの痛みにしばらく立ち上がれない状態だったのですが、この日以降なくなりました。

腰以外に首や肩も痛いという悩みがありました。どれだけ痛いとこだらけなのでしょう(笑)二回目に来たときには肩と首の痛みを形代で撫でてみました。やはりそれ以降痛みを感じなくなったのです。私にとってこれは本当に奇跡以外の何ものでもありません。

宮司さんにこの話しをしたところ、「おそらく祖先のどなたかがこの神社に何かしらの所縁があったのではないかなと思います」とおっしゃってくださいました。実際にそうかもしれません。(母方の祖先が三方原にいたので)

私の祖先の話しは別として、今回のように神社を訪れたことで起きた良い出来事に感謝を気持ちを忘れないことです。「痛みが取れた、よかった!」で後は知らない、が一番良くないことだと思います。皆様もどこかの神社に行ったことで良いことが起きた経験がおありでしたら、いつまでも感謝の気持ちを忘れることなく、継続的にお参りしに行きましょう。

神遣布(やらいぎれ)は布にやめたいもの断ち切りたいものを書き、それを真っ二つに引き裂きます。御神威(神の威力)にすがり悪いものを追い払います。

引き裂いた片方の布を自分が持ち、もう片方は神社に用意された場所に結び祈願してもらいます。タカミカヅチは剣神であり雷神でもあります。真っ二つに引き裂かれた布の形はまさに剣で切り裂いた形であり、雷が引き裂いた形なのであります。

悠々と枝を広げる御神木

曽許乃御立神社の境内には御神木の楠木がどっしりと構えています。

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枝を大きく広げるその姿は、参拝に訪れた人たちを包み込んでくれているかのようなやさしさを感じます。残念ながら写真では雄大さの一部しかお見せすることができません。ぜひここに来て、その目で実物をご覧になってください。

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拝殿横にはモクレン科の「オガタマノキ」が立派な姿を見せてくれています。

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オガタマは招霊(おぎたま)から転化したものとされています。オガタマノキを供えて神の霊を招く神道の考えからきています。この場所にふさわしい御神木ですね。


宮司さんご兄弟は自分たちがこの神社に携わった頃、ここに神様を感じなかったそうでう。近所の人からもここには神様なんかいないと言われていたそうです。だからこそ今の宮司さんは、ここに神様に来てもらえるように一生懸命やってきたそうです。

ある日、兄弟お二人ともが神様がいる瞬間を感じたそうです。しかも力強い神様がいると確信したそうです。(ご兄弟が宮司さんになられる前はしばらく神主がいなかったそうです)

「だからこそ自分たちは毎日御饌の献供を続けていこうと心に決めてきた。必ず神様がいると信じてやってきた。だから降りてこられたのだと思う。神様がおいでになったと心から感じました」
お二人がいなかったらこの神社はどうなっていたのかわかりません。そう思うとお二人には感謝の思いがあふれてきます。

手水舎にオシャレな演出

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コロナ禍でどこの神社も手水舎で手を洗い清めることを自粛されています。このご時世では仕方のないことではありますが、参拝に訪れた人の心を清めるために手水舎にガーベラを浮かべています。

時折聞こえてくる鈴の音がお祓いの役目を果たしています。

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神社の継承問題の解決のために

神主さんの継承問題などを抱えていて色々と大変みたいです。今の宮司さん兄弟が存続をかけて諸問題の解決に立ち向かっています。ご兄弟は曽許乃御立神社の社家ではないのですが、継承を途絶えさせないために、立て直しのために立ち上がった宮司さんでもあります。

お話ししていて、鹿島の分祀であり絶やすことは絶対にありえないという強い意志を感じました。もっと多くの人たちに関わってもらいたい。神社は続くことが当たり前だと思っていた私の中の常識が覆された思いです。1250年続いてきたこの神社は今後も続いていかなければならない。守らなければならないという強い意志を感じました。

長い神社の歴史の中で自分たちは中継ぎの存在ではあるけれど、中継ぎだからといって後のことは知らない、というわけにはいかない思いを強く感じました。

今回お話しをさせていただいて、その中でもとても興味を持ったものが剣先にどっしりと座るタケミカヅチの姿を再現したいというものでした。これが実現したらどんなに良いことでしょう。力強いタケミカヅチがいる神社として、もっと多くの人がお参りされることになっていくでしょう。

ところで神社の色は何色?

最後に宮司さんにこんなことを聞いてみました。
「この神社を色に例えると何色だと思いますか?」
宮司さんは即座に「青と銀色ですかね。銀色はタケミカヅチの剣をイメージしたのかもしれませんが、青はなんとなくですけど感じています」とおっしゃいました。

神社には神様がいます。青の色彩言語として「神聖さ」というものがあります。そうです。まさに神の領域の色が青なのです。
毎日神社にいるということは、いつも神の領域の中にいることに他なりません。つまり、いつも青を感じながら生きておられるということです。
宮司さんの口から無意識に出た青は、色彩言語においては理にかなっていることです。

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特に加工も何もしないで普通に撮った写真です(iPhone)写真の中からも全体的に青い印象を受けますね。
青の本質を持つ神社を撮ることができたのか、はたまた偶然か。
それは「神のみぞ知る」ことです。

そしてこうもおっしゃいました。
「神様が降りてきたことを特に実感したときはオレンジだったですよ」
これもとても意味深いお話しです。

オレンジには「至福」や「向上心」という意味があります。神様が降りてきたと感じた瞬間の至福の思いと、神に仕える身としてもっと成長していこうという思いがオレンジを感じさせたのだと、宮司さんの言葉から確信しました。


曽許乃御立神社
〒431-1202 静岡県浜松市西区呉松町3586



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舘山寺街道沿いに見える縦看板と鳥居が見えたら、その先に曽許乃御立神社はあります。神社の北側にも境内に隣接した駐車場があります。

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南側からは二ノ鳥居をくぐってお進みください。

私の大注目の神社「曽許乃御立神社」をご紹介しました。
浜松市の方、是非お参りしにお出かけください。

最後まで読んでくださいましてありがとうございました。






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