太陽神ブラジルとは何か:TIOVITA1「TAIYOUSHIN BRAZIL」ライナーノーツ(2011)

「いまぼくが考えていることはどれもこれも糞の役にもたたない、
麻薬でてんでいかれているからさ。」(リチャード・ブローティガン)

 太陽神ブラジルとは何か。さっぱりわけのわからない表題であり、予告するが、以下に書かれるであろうそのタイトルに対する解答めいたものも、おなじようにさっぱりわけがわからない。以下に書かれているのは、さっぱりわけがわからない出来事に対する、さっぱりわけのわからない応答である。太陽神ブラジルは、日本がさっぱりわけのわからない状況に突入してしまった「あの日」以降に生まれた。半年たった今でも、毎日の出来事は、さっぱりわけがわからない。・・・とまあ、本題に突入できなくなってしまいそうなしつこい言葉遊びはこのぐらいにして、少しはダンス・ミュージックのライナーノーツとしてふるまえるよう、さっぱりわけがわかったような口ぶりで、ちょっとはそれっぽく書きはじめることとしよう。ではそういうわけで、本作は、チオビタ1の2枚目となる12インチ・シングルである。「TAIYOSINN BRAZIL」という謎めいたタイトルに関して、この場を借りて少しばかりの解説(のようなもの)が以下には書かれている。しかしその本題にはいるそのまえに、かれらのファースト12インチについて、まずは軽く触れさせていただきたく思う。

 前作「god complex」に収録された「himitsu club」は、まさに”秘密”にしておくほかはないといったような突飛なネタ使いと、捩れひねくれたビート・メイキングによって、ディスコ・ダブでもテック・ハウスでもニュー・ディスコでもなくなった、つまりハウス・ミュージックそのものの様式化と細分化とが笑いながら拒否された、正しく先鋭的な作品であった。その類稀なる「傑作」は、ぼくたちのナイトライフに、きちんとした刺激を与えてくれた。その皿をDJセットのなかに組み込むことは、特別な一夜を演出するに、さりげなくもふさわしいものであった。ぼくもことあるごとにDJではかけてきたし、そしてフロアではそのたびに、何らかの出来事が起こるのだ。しかしそれがどんなものであったかは、その場に居合わせた人だけが知りうるのであって、ここで文章にされるべきことではない。秘密は、秘密のままに。それが粋なパーティーカルチャーというものなのだ。

 昨年のファースト・リリースから1年と少しが経過した。そのあいだに、ぼくたちの世界は、ここ日本で暮らしている人なら誰もがわかっているように、いろいろなことが変ってしまった。その変化は、本作のタイトル「sun」「god」「brazil」にもあらわれている・・・と書いただけではわかりにくいかもしれないが、2011年3月11日を起点として変ってしまったもの、そのことへの動揺と、そしてそこからの新たな希望を、その3つのタイトルは、実は指し示すものなのである。実際のところ、この作品のタイトルは、震災後2週間ばかりたった頃の週末に、(震災のショックを抱えつつ)ひさしぶりに皆で集まったとあるパーティーの最中に、踊り狂いながら名づけられたものだ。太陽と、神と、ブラジル、その3つの単語が、まるで啓示のように、不届きなインスピレーションとして、陶酔して踊るぼくたちのもとに降りてきた。とはいえ、そう聞いただけでは、なにが示されているのかはよくわからないものであるとおもう。そこで、このライナーノーツというスペースを借りて、そのよくわからないがぼくたちの希望のためにとてもとても大切なことについて、説明を加えさせていただきたいと思う。あまりに隠し事ばかりしているのもむずむずしてしまうから、秘密を少しだけ、ここではお伝えしておきたいのだ。

 「SUN」。まず太陽が失われた。それは、3月11日を「3.11」と呼び習わすことで、「月」と「日」という、ぼくたちの生きるリズムを宇宙的に規定するものが、その「いちにち」から取り去られてしまった、という点においてのことである。いうなれば、東日本大震災は、政治的な事件であったということである。あの大地震は、自然災害ではなかった。確実に。それは自然災害ではなく、明確に、政治的事件であったのだ。なぜなら、政治的事件とは、大地の揺れそのものを問題にするものでも、宇宙のなかの地球という視座を必要とするものでも、まったくないからである。政治は、とどのつまり自然を、宇宙を相手にはしないということなのだ。そのようななかで、ぼくたちがほんとうの意味で「日常」、つまり月がめぐり太陽が昇り沈むという「まいにち」を取り返したいのであれば、3月11日以降の日々を、政治的事件と付き合い、時にはそれと闘っていきながら過ごしてゆくことが必要になってくる。そして、最終的には、ぼくたちは政治的な時間に生きるのではなく、太陽の存在を取り戻した生のなかから政治を練り上げる者に変貌するような地平を、目指してゆかなくてはならない。太陽という存在が、ぼくたちにとっての重要なビジョンのためのひとつの鍵となるのだ。

 2つめ。もとい、2曲目。「GOD」。神頼みは通用しない。たとえば、「この土地でとれた野菜は安全である」。「この土地でとれた米は安全である」。そのように言うことは、もはや神頼みの域なのだ。しかし誰もがわかっているように、そんなことは絶対に保障されえない。そのような「断言」をすることができるのは、放射能の動きをコントロールすることができる者だけである。セシウムを運搬する風と雨雲とを、いったいだれが意のままにすることができるというのだろうか。神ですらそのようなことは不可能なのだ。だから百歩譲って神が存在するとしたら、それはすなわち自然そのものである。そしていまや自然界のいちばんの強者はセシウムやストロンチウムやプルトニウムetcetc...となってしまった。だから神は、この局面においては放射能それ自体において具現化するほかはなく、神頼みが通用するとすれば、それはつまり放射能が「主体的に(神の意思として)」、その土地には降りかかろうとはしなかった、という結果としてであるだろう。つまり、痕跡を残さない、逆転された奇蹟として。しかしそうはいっても、神は放射能なのであるから、「奇蹟を起こしてくれ」などというみみっちい人間の言い分などには20000年以上を生きる身分としては耳を貸さない。よって、神頼みは無効なのである。これは力技な言いかただが、せめてこのような場においてだけは、暴論をお許しいただきたい。神様・・・と懇願すること、そんなことをしている場合ではない。そんなところに希望はない。だとしたらどうすれば。迷う。しかしその問題提起そのものをぼくたちの希望とするのだ。

 3曲目、「BRAZIL」。3月11日以降、決して成就しないサウダージというものを、ぼくたちはブラジルの裏側にいながらに持ってしまうこととなった。太陽の消えた世界にあって、神は放射能そのものへと変貌した。ぼくたちのふるさとが、ぼくたちが生きているうちには取り戻すことのできないものになってしまったのならば、ぼくたちは永遠にメランコリーとともに生きていくことになるだろう。そのような時になにが必要になってくるのだろう。太陽を生き返らせることである。神を、つまりは放射能を殺すことである。そして、地球の裏側というもの、すなわちもうひとつの世界を、想像することである。地理的に限りなく遠いが、限りなく心理的に近いものとしてのサウダージという概念を、措定してみること。あの夜のトリをつとめたDJ JYOTAROが響かせたブラジル音楽の中から、ぼくたちにとってのサウダージがどういうものであるのかが、新たに発見されたのである。もっといえば、レコードに刻まれたブラジルのうたが、ぼくたちにまさにそこにあるであろうもの、すなわちサウダージそのものを、届けてくれたのだ。

 炉心溶融は、象徴的な意味における、ブラジリアン・シンドロームであった。福島(A.K.A.フクシマ)の大地に穴が開き、地球の裏側への通路を開く。サウダージを持つことすら不可能ななかで、それでもサウダージを取り戻すためには、そのぐらいの妄想じみた想像力を駆使しなければならない。開いた穴は、二度と塞ぐことはできない。それは根源的に、自由な通路である(と信じたい)。溶融するものは、ぼくたちが自由な通路を通り抜けようとすることを妨げるものだけであればよく、そこで、自由を妨げるあらゆる境界が、溶けてなくなることを夢見る。そして自由な通路そのものを故郷としながら生きていく。「目的は瓦礫ではなくて、瓦礫の中を縫う道なのだ」(W・ベンヤミン)。そこでサウダージという概念が救済される未来の到来を、信じること。そんな想像は、一面からすれば狂気に近いものであるが、しかしぼくたちはこれからはつねに、メルトダウンの反作用としての「かくめい」的な狂気を、こころの片隅に携えて生きていかなくてはならない。この12インチは、そのようなことを想うための、東京から発信された超現実的な表現である。太陽神ブラジルという、3つの要素のミュータントとしての(オルタナティブに「神的」な)存在は、決定的に「現在」、その瞬間そのものである。その太陽神ブラジルは、実は、愛を信じてもいる。微力ながらも愛を信じること。愛の共同体としてのパーティーのさなかに、このレコードが響かせる希望を、もはや秘密としてではなく、ぼくたちのパワーとして、おおっぴらに共有できる現場に出会うこと。それこそが、3月11日以降においてダンス・ミュージックの12インチがもっている素晴らしく幸福な使命なのである。

2011年9月13日

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