レベッカ・ソルニット「災害ユートピア」を震災直後に読むということ(2011)
今こそ読むべき本だなどというありきたりな煽り文句が、真に差し迫って聞こえるのはまさにこの時期をおいて他にないだろう。読むべき、という推奨を超えて、僕にとっては「読まされている」という感覚にすら近いものすらあるが、しかしそれは強制されているということではなく、この本そのものによってそうさせられているようなものだということである。つまりこの本に、僕(たち)が読者として指名されたという感覚が、確固たるものとして存在しているのだ。そのようなことがあるということには素直に驚かされるし、そしてそうであるからこそ本は本であるのではないか。しかしとはいえそのような理想的な本はそうそうあるわけではないし、だから、一般的にいえばこの本は本としての役割を超えている。本が「使命」を持ち得た稀有な瞬間(というのもこの使命は永続はしないだろうから)をまさに今、僕たちは経験している。
本を読むということにおいて、このような経験をするということはほんとうに稀である。少なくとも僕にとっては、小説を読むのであれ批評を読むのであれ、もちろん当事者性というのを全く抱えていないというのは嘘になるけれども、愉しみのために読書するという日常生活のなかにおいては、それはこのような「本に選ばれる」という状況にはなりにくい。本に選ばれるということは、つまりその本と「ともにある」ことでもある。本とともにあるということは、「読む」という本と読者とのあいだの関係だけでなく、本が読者を超えて読者の周りとかかわる社会的な経験としての意味と広がりを持ちうる、ということであるのだ。本が読者を社会化するのである。
この本に書かれているのは主にアメリカが中心ではあるが、しかしそれらの事象は今の東京を生きる僕たちによって自動的に翻訳され、ほとんどが自らのこととして読むことができる。当事者性そのものである。他人事とは思えない。「特別な共同体」はこのようにして広がりを持つ。この本自体が、共同体を生起させもする。
しかしこの共同体はもちろん特別なものであるだけに、一時的である。「復興」という物語が作られていくにつれて、この共同体もまた、過去の物語となる。けれども、僕たちがこのようにとても素直に社会的な存在でいることのできるこの瞬間があること、このことは忘れてはならない。それがために、このようにいささか神秘的なレビューを書くことも辞さない「特別さ」、そういう瞬間に今立ち会っていることに間違いはない。そしてそのことは、「幸福である」ということを遠ざけるものでは決してないのである。
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