トラフィック・オブ・ザ・デッド/ジョージ・A・ロメロ追悼(2017)

 ゾンビ映画の歴史はロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」によって革命的に変わりました。もちろん、それ以前のアメリカ映画においてゾンビが登場する映画はもちろんありました。古くは1930年代から、死者が甦るホラー映画は生産されてはきましたが、幽霊譚や吸血鬼などと比べると、ホラー映画の中の一つの小さな題材としてしかみなされていなかった感があります。そんな中でロメロが68年に撮りあげた「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」はゾンビ=甦る死者(ちなみに、映画の中ではゾンビを指して「ゾンビ」という単語はまだ使われません。そのような呼称はなく、まだ得体のしれない怪物であったのです)をホラー映画の主流ジャンルへと持ち上げる嚆矢となりました。おそらくこの映画がそのように重要なホラー映画史のメルクマールとなったのは、低予算ながらも圧倒的な恐怖演出が冴えわたるとともに、ホラー映画が明確にラディカルな政治性と手を結んだ、というところにあるでしょう。

 ホラー映画は、50年代にあってももちろん「政治的」ではありました。冷戦時代まっただなかにあって、アメリカにとっての(仮想)敵は共産主義と、核戦争への恐怖でした。「遊星よりの物体X」しかり「放射能X」しかり、50年代のホラー映画は明確にその物語の中に現れる「敵」=怪物を、アメリカという国家の敵と見事なまでに一致させています。つまり、それらは恐怖の物語という皮をかぶった冷戦時代の脅威の表現そのものであって、政治的にはきわめて保守的な「国家をいかに守るか」という心性に裏打ちされていたのです。遠くの空から飛んでくる「物体X」も、放射能の影響で巨大化する昆虫も、当時の国民不安の実直な反映だとひとまずは見ることが可能でしょう。

 しかしながら、スタジオ・システムが絶対ではなくなっていく60年代にあって、映画は必ずしもマジョリティによる制作物ではなくなってきます。自主映画を作ることもだんだんと容易になり、国家イデオロギーに抗するものももちろんあらわれてくる、というのが必然の流れということにもなります(50年代にあっても、ネビル・シュート原作の「渚にて」のように明確に反戦・反核を打ち出したものもありましたが)。ロメロの映画はそんな流れの中で生まれてきました。ゾンビの誕生の原因は宇宙からの放射能です。ある意味で、それは「国家」の与り知らぬところからやってくるものでした。敵国から飛んでくる核ミサイルではない、というところがミソです。だからひとまず、ここでは冷戦というものは作品存立の「条件」はなしていない、ということができるのです。

 しかし、いちおうはこれは恐怖映画ですから、恐怖の対象を措定しなければなりません。ロメロは、核実験の放射能やミサイルを恐れることはしませんでした。その代わりに家族の崩壊とレイシズムを恐れました。そうなのです。ゾンビと化した者は家族であっても平気で襲います。ここが「リビング・デッド」の最も恐ろしいシーンのひとつになるのです。そして最後まで生き残った黒人青年が助けを求めようと手を振るとゾンビと間違われて撃たれてしまうという皮肉なラストは、まるでロドニー・キング事件をも想起させるもので、ここにはレイシズムへのシニカルかつ批判的な視線を見て取ることができるでしょう。

 これらのテーマは、74年の次作「ゾンビ」にも引き継がれています。家族はそもそも崩壊している。白人男性2人、黒人男性1人、白人女性1人というサヴァイヴァーが、隔絶されたショッピングモールのなかでいかに生き残るかという物語は、最終的に女性と黒人が生き残るという結末を迎えます。「リビング・デッド」での黒人の死を乗り越えるかのように、ここでロメロはマイノリティに生と希望を与えます。フェミニズムとブラック・パワーが映画の中で勝利するのです。

 ゾンビ3部作の3作目「死霊のえじき」(85)でロメロはまた違った視角を提示します。それまで匿名性を持ち意味や動機と無縁だった怪物=ゾンビに主体性を付与します。もちろん、前作でショッピングモールを徘徊するゾンビを資本主義の犠牲者として表象していたということもありますが、これは後の「ランド・オブ・ザ・デッド」にも接続されるように、その犠牲者たちの「来るべき蜂起」を予感させたということができるでしょう。そうなるともはや生き残った人間は1%の富裕層でしかなく、逃げていった先の楽園とも思えるような島も、99%に包囲される「孤島」=ゲイテッド・コミュニティであるかのような気さえしてくるのです。

 このようにロメロはゾンビ映画の中にも社会性を忘れない作家であったのでした。ホラー映画は、その時代に、ひとびとが何を恐れ何を不安に(時に不満に)思っているかの写し鏡でもあります。いや、まあ世の中の大半のホラー映画はそのようなことはさほど考えて作られているわけではないのですが、ロメロはやはりそのあたりに敏感な人であったのだろうと思います。それが、「映画作家」であるということの証左でもあるのですが。

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