2008年10月1日の夢。
赤ん坊を産んだ。
産まれたての赤ん坊を胸に抱いていたら、涼し気な顔をした看護士が、貼り付けたような笑顔を作り
「赤ちゃんはここに寝かしといて下さいね」
とベビーベッドに赤ん坊を入れることを促してきた。
何故か嫌な予感がしたが、有無を言わさぬ雰囲気に負け、ベビーベッドに赤ん坊を入れた。
その瞬間、ボロボロの黒い服を着た女がやって来て、赤ん坊を連れて風のように去ってしまった。
産後間もなかったため、身体のいろんな部分が痛んだが、気にせず私は裸足で走って追い掛けた。
足が血だらけになり、なんども転び、膝を擦りむいたことにも気づかずに必死で追い掛けたが、黒い服の女を見失ってしまった。
途方に暮れ、泣きじゃくりながら病院に戻り、先ほどの看護士を見つけたので肩を掴んで
「どういうことなの!?返してよ!私の赤ちゃん返してよ!!!」
と叫んだ。
しかし、看護士は貼り付けたような笑顔を崩さずに黙ったままだった。
さらに大声で泣き叫んでいると、白衣を着た複数の人たちに囲まれ、羽交い締めにされ、よく分からない薬品が染みた布を嗅がされ、気を失ってしまった。
目を覚ますとそこは自分の病室だった。
病室のドアの隙間から退院のお祝いをしている人たちが見えた。
「誰か退院するのか・・・」
とぼんやりと眺めていたら、どうやら自分の退院のお祝いのようだった。
腕いっぱいの花束をもらったが、その腕には花束ではなく、赤ん坊が居るはずだったと思うと涙がとまらず、泣きじゃくりながら迎えに来たタクシーに乗りこんだ。
タクシーは急な坂を越え、大きな橋を三つ越えたところで止まり、私は何も言わずに降りた。
辺りを見回すと、見覚えのある家があったので、何の疑いもなく入って行ったら、母方の祖母がこたつに入り、私の赤ん坊を抱いていた。
何故か父方の祖父もそこに居て、こたつでテレビを見ていた。
古めかしいテレビは、白黒の画面で相撲を映していたが、既に引退した力士か、知らない力士の取り組みばかりが流れていた。
優しく腕を揺らしながら赤ん坊を抱く祖母の隣に、2歳くらいのおかっぱ頭の可愛らしい女の子が立っており、赤ん坊の頭を愛おしそうに小さな手で撫でていた。
愛犬ラッキーも居て、部屋の隅にちょこんと座り、私の顔を見て嬉しそうに尻尾を左右に振っていたが、その場を動こうとはしなかった。
祖母は
「まきちゃんの赤ちゃんは可愛い男の子だねぇ」
と言ってくれた。
そしたら祖父が
「ほんとだなあ」
とテレビを見たまま言った。
おかっぱ頭の女の子はこちらを向いて、
「まきちゃん、こないだ来てくれたでしょ?うれしかったなあ。それにしても大きくなったねぇ。とっくに私を抜いちゃったねぇ。」
と、まるで大人のような口調で言った。
「こないだ来た」とその女の子は言ったが、私は彼女に会った覚えがなかった。
色んな人が色んなことを言ってきたが、私は自分の赤ん坊を自分の胸に抱くことしか考えていなかった。
「ねえおばあちゃん。赤ちゃんを私に抱かせて?」
と言うと
「今、ちょうど寝たところだから、起こすと可哀想だよ」
と断られてしまった。
「そうか、寝たばかりなら起こすのは可哀想だな」と少し残念に思っていたら、家の外で車の停まる音がした。
車から降りて、誰かが家の中に入ってきた。
何事かと思って見たら部屋の襖が思いっきり開いた。
そこには夫が立っていた。
「何やってんの?」
夫は少し怖い口調で私に向かって言った。
「なにって・・・赤ちゃんを迎えに来たんだよ。あなたこそ何をしに来たの?なんでそんなに怖い顔をしているの?居なくなった私たちの赤ちゃんがここに居るんだよ。うれしくないの?」
夫は何かを考えるように少し黙った後、悲しいのか怒っているのか解らないような表情でこちらを見て、ハッキリとした口調でこう言った。
「僕は君を迎えに来た。」
私はやっと家に帰れるのだと思い、喜んだ。
赤ん坊を抱いて帰ろうと祖母の近くへ行こうとしたら、今度は夫と祖母に止められた。
私は理解不能で、激しく抵抗した。
泣きじゃくりながら
「私の赤ちゃんなのになんで私が抱いたらいけないの?!なんで連れて帰っちゃいけないの?!あなたはこの子が可愛くないの?!愛してないの?!」
と夫に向かって言った。
夫はさっきと同じ表情で
「・・・そうじゃない」
と言った。
「じゃあなんでなんでなの?ねえなんで!!!」
と叫んで赤ちゃんを祖母から奪おうとしたら強い力で右腕を夫に掴まれた。
「痛いよ!離してよ!あんたなんか大嫌い!やめてよ!なんでこんなことするんだよ!」
と言ったけど腕を握る力を緩めてはくれなかった。
「良かった・・・」
と安心したように夫が言った。
この瞬間、自分は夫に愛されていないんだと確信した。
夫に愛されていなくてもいい。
赤ん坊だけは連れて帰らなくてはいけないと思い、夫の手を振りほどこうと必死でもがいたら、今までテレビから目を離さなかった祖父がこちらを向いて、 鬼のような形相で
「妻は夫の言うことを聞くもんだ!!!」
と怒鳴った。
祖父の剣幕に私は怯んだ。
その瞬間に夫は私を抱え込むようにして部屋の外へ連れ出して、部屋の中に向き直ると
「妻を連れて帰らせていただけることに感謝します。僕たちの息子をどうかよろしくお願いします。」
と深く一礼した。
私は意味が分からず、ただただだ夫の腕を振りほどくのに必死だったが、すごい力で押さえ込まれていて叶わなかった。
夫に向かって汚い言葉をたくさん吐き、大きな声で泣き叫んでいたら、自分の泣き声で目が覚めた。
目を開けるとそこには病室の天井があった。
視線を右にずらすと、祈るように私の右手を両手で握っている夫がいた。
私が目を覚ましたことに気づいた夫は
「戻ってきてくれたんだな・・・良かった。本当に良かった・・・。」
と肩を震わせて泣いていた。
私はぼんやりとしながら、
「赤ちゃんは?」
と聞いた。
夫は
「僕たちの子どもは死んでしまったよ。」
と言った。
私はそれを聞くと、今度は声もなく泣き出した。
「君も危なかったんだよ。昏睡状態が3日も続いて・・・」
夫はそう言ってさらに強く私の手を握り締めた。
涙でボロボロの顔で
「ちょっと痛い・・・」
と言うと
夫も涙を流して
「良かった・・・」
と言った。
そして
「良かった。痛いのは生きてる証拠だ。」
と続けた。
この時私は全てを理解した。
あのこたつのある家は、死後の世界なのだろう。
そこにいた小さなおかっぱ頭の女の子は、2歳で亡くなったという、母の姉の「ひろこちゃん」だ。
つい最近、ひろこちゃんのお墓にお線香をあげに行ったばかりだった。
赤ん坊は既に亡くなっていたのだ。
おそらく死者に触れるとあちら側の人間になってしまう。
だからこそ、ラッキーは嬉しそうに尻尾を振っていたが近づいてこなかったし、祖母も赤ん坊を抱かせてはくれなかった。
祖父に至っては、物凄い勢いで怒鳴り、私が帰るように仕向けてくれた。
私はこんなにも多くの人に愛されていたのだ。
さっきとは違う涙が流れた。
「私、夢の中であなたにひどいことを言った」
『何て言ったの?』
「『大嫌い』って・・・」
「悪態をつくのも君らしいじゃん。やっぱり帰って来たんだね。うれしいよ。それに聞き慣れてるから、その言葉。君の『大嫌い』は大嫌いじゃないの分かってるから。」
「うん・・・」
夫の大きくて温かい手が私の前髪に触れるのを心地よく感じながら、私はベッドに沈み込むように終りのある眠りについた。