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雑記

仕事でも家でも移動中でも、文字ばかり読んでいる。
仕事では観光系のウェブ媒体(日英)の運営、移動中は苦手な電車から意識を逸らすために夢中になれる小説(英)を読む。
家に帰るとその日のニュース(日英)を読み、最近はサボっているが聖書(日)のその日の該当箇所を読み、調子が悪い日は詩集(日また
は英)を開き、調子が良い日は小説(英)やら自分がそのとき興味のある分野の本(日または英)を読む。

日本語と英語がごちゃ混ぜの毎日で、主にこの2つの言語から生まれる言葉で現在のわたしが形成されているのが面白い。
母国語+いくつかの言語を自分に溶け込ませると、見える世界はまったく違う。

ウェブ上でいわゆる情報発信をすることがわたしの主な仕事であるが、
仕事においては、わたしの自我など邪魔なだけで、不要なものだと思っている。
会社の利益になるもの、明確にある目的に沿う形でコンテンツ、タイトル、そこに詰め込む文字を考える。
読み手はあくまで数字で、わたしはその数字をベースにしながら、言葉を考え、訂正し、せっせと数字を上げていく。
会社で期待されていることは理解しているし、だからこそメディアの運営をたった一人で担っていたところから、今は外部も含めて何人かメンバーを抱えるまでに大きくなった。
仕事では大衆に届けなければいけない。
つまり言ってしまえば「安い」発信をすることなのだが、まがりなりにも文学を愛する人間としては、やはり少し自分を鈍らせることをしないと、こういった作業は簡単にできない。
詩や小説によって正気を保っているような人間にとって、こういった安い言葉の発信など、時に吐き気を催すものだと思う。
けれどそこは、生活のために稼ぐということは、時にそういうことであると割り切るしかない。
「好きなことを仕事にしたら不幸になる」というけれど、こういうことなのかも。
わたしは大学生の頃から稼ぐために大衆向けのコンテンツを大量生産するライターのアルバイトをしていたので、自分がそういうコンテンツが好きか嫌いかでいったら嫌いに決まっているけれど、耐性というのか、開き直りというのは潔く出来ている。
とはいえ誰かの役に立っている実感はちゃんとあるし、少しでもその中で質の良いコンテンツを届けようと努力はしている。

歌手の椎名林檎さんが、J-POP界のレジェンド的存在なのに、本人は歌がつく音楽を好まず、「歌がついたら風俗になる」というようなことをインタビューで言っていたことを思い出す。
自分のロマンと、職人として行うものはかけ離れていていいのだと思う。

「出来る」ことと、「好き」なことはまた違う。
わたしは社交的な性格だと思われているらしいが、
実際は、家で一人で本を読んだり、夫とNetflixでアニメを観たりすることで一番の幸せを感じる人間だ。街歩きや出かけるときは、一人の方がずっと楽。だから大学生の頃は怖気づきもせずアメリカへ一人旅に何度も行った。
人と話すと、表情の変化を敏感に察知してしまうし、何気なく発した自分の言葉をしばらく後悔することになったり、相手の言葉を過敏に受け取ってしまうので疲れてしまう。
自分と関わる人のことを考えるあまり、自分の気持ちがいくら落ち込んでいようが身体の調子が悪かろうが、明るく上機嫌に振る舞えるようスイッチを自然と切り替えている。
わたしの「好まない」けど「出来る」ことはこれで、色々な人と仲良くなったりすぐに友達になれる能力は幼い頃からあるけれど、内心とても疲れるし、苦手意識さえもっている。
大学生のときは、社交の場に自分を飛び込ませていたけれど、それは東京で孤独な一人暮らしをしていた自分のある種のサバイバル術であった。
楽しくはあったけれど、長く続けられないので、当時近所にあった川辺を一人で散歩したり、近場の本屋とコーヒー屋が一緒になった場所で心を整えていたものだ。

今は幸いにも、一緒に生活を共にする夫がいるので、大学生の頃のようにサバイバル術を行使しなくてもよくなった。おかげで初対面の人が大勢いる集まりや、あまり親しくない人と会うことをなるべく避けることができている。
安心して一人の時間を楽しめるのが嬉しい。
大学以前、家族で住んでいたときも、自分の部屋で英語の勉強だったり、海外に住むことへの妄想だったり、一人でものを考える時間が至福のときだった。
昔から一人が好きだとは思っていたけれど、一緒に住む家族がいたから、安心して一人を楽しめていたのだと気がつく。
父だったか、誰かに言われたことがある気がするけれど、大好きな一人の時間だが、心から謳歌するためには、誰かがそばにいる生活が必要であるという矛盾を孕むのだ。


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