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今月も・・・。

またこの日がやってきてしまった。
月命日。
母親がこの世界から去ってもう3か月。
時の速さだけは止めどもない。
もう居ないという事実をちゃんと心に刻みこんではいるし、泣くこともなくなったし、眠れなくなるほどの「焦れ」もなくった。
でも時たまくる「どうしようもない孤独感と寂しさ」はどうしてもぬぐい去ることは出来ない。
多分、これは自分が死ぬまでその瞬間は度々訪れるのだろうと思う。
こればっかりは仕方のない事なんだろう。
本当にずっと「世界がすべて敵になっても、味方でいてくれた人」であり俺をこの世界に生まれ落としてくれた人なんだから。
生きる事はいつだって辛い。今だってさほど変わることなく痛みは続いている。
でも俺というこの世界では取るに足らない存在でも、昔ほど否定的にはならなくなった。と思う。
生きてく意味とか意義とかは、今だ全くわからないし「無駄なのかも?」と思う時はある。でも生まれ落としてくれた人の意味はなんとなく否定しちゃいけない気がしている。
こんな禄でもない人生だって少しくらいは「楽しかった事」や「楽しみにしている事」くらいあるし、他人の生き方考え方に感動したり感謝したりする。
そんな時はやっぱり「生んでくれてありがとう」と素直になる。
人を憎むことも蔑むことも時にはあるし沢山の人を傷つけてきた。
その贖罪が今の立場と現在の状況であると思うから、「人並の幸せ」なんていう愛する人と家族を作り子供が生まれ成長を喜びにして老いていくなんて事が出来うるわけないのは「都合のいい我儘で身勝手な夢」だと思っている。(その点に関しては、母に「おばあちゃん」にならしてあげられなかったという申し訳なさと後悔は常にある)
人生どうなるかなんて誰にもわからないけど、基本望んでないものは叶わないし、今は望めるような立場にも経済力も覚悟もない。なさけないけど。
自分に「魅力」なんてものは、俺自身が女子の立場だったら「ない!絶対ない!」と言い切れる。(何?その変な自信?キモっ)
まぁともかく、「死にたい症」みたいなもんは、最近なくなった。
まぁどこまで生きてく意味なんてものをこの世界に残せるのか?わからないけど、命が続く限り「こんな人間だけど、生きた証みたいなもんを残していけたらな」なんてことを薄ぼんやり考えたりしてる昨今。

だから今「死にたいなぁ」なんて考えている人も、足掻くだけ足掻いてみたらいい。かっこ悪くたってみすぼらしくったっていいじゃん。
自分自身の生き方なんだし、死ぬなんてすげぇ強い意志と勇気あるんだから。俺なんて「痛いのやだ」し「準備」なんてめんどくさいから「死にたい症」の時だってほとんど出来なかった(一回ホントに全てに絶望してあの例の「自殺マニュアル」みて「死んだろ」って思って実行しようとした事はあるけど、それ母親に見つかってこっぴどく叱られ助けられたんだよなぁ。そういえば。)

とにかく、今生きてこうやって駄文を連ねられる事。
感謝してる。

母さん、ありがとう。ゆっくり休んで。

もうちょっと先にはなるけどさ、そっちに行くの。
(死ぬよ、言われてから仙人かみたいな食生活してるからね)


続く。

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