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インターホン越しの取り立ておじさん

昔(と言っても9年前)とてもお金のない時期に、取り立てが家に来たことがあった。くまのみさんのnoteを読んで思い出した。

靄を消すように、静かだ。電卓を打ち終わるときの吐息が聞こえてきそうな空気があって、その中に気丈な、くまのみさんがいる。普段、お子さんへ向けられている気遣いが、読んでるこちらに向けられているようだった。「誰も苦しくないように」思わず、涙ぐんだ。

それで思い出した。そういえば、取り立てが来たことがあった。


今でこそ、休日に諭吉が飛ぶハイコストでハイパフォーマンスな夢の国へ行く余裕もあるのだけど、当時は「その日」のことしか考えられない、つつましい生活をしていた。
極貧だと、その日を生き延びるだけで達成感があるのかと知った。

なので、それほど不幸でもなかった。
極貧さを比べる対象が目に入らなかったし、入れる余地もなかった。
まったく世の中のお金のライフハックがハック出来ないほど貧しかったのだ。手軽に出来るはずの金策を参考にしようとしても、そもそも操作できるだけのリソースが手元にないと、ハックしようにも、しどころがない。


そのときわたしは妊婦で、4か月くらいだったろうか。
ひどいつわりだった。
平衡感覚がなくなり、野菜をミキサーで砕いた飲み物くらいしか受け付けられず、人生で初のベジタリアン生活をしていた。

長らくそんな生活をしていたからか、それとも妊婦とはそういうものなのか、嗅覚が犬並みにするどくなった。
電車に乗れないので、歩いて妊婦検診に出掛けると、道の向こうから人が来るのが匂いでわかるのだ。
人とすれ違うとき、下から体に沿って匂いが沸き立ってくることもあった。匂いって本当に粒子なんだなと知った。風向きで匂いが漂ってくる方向が変わる。空気の微妙な湿度による地面や木から湧き立つ匂いで、天気の変化を予測したりしていた。

海の上ならかじ取りの役に立ったかもしれないが、現代(特に東京)ではただ生きづらい。健全なのかイマイチよくわからない身体を持て余していた。

仕方なく、たまの買い物か妊婦検診以外では出掛けることもなく、家で本ばかり読んでいた。あと、たまに来るよくわからない宗教勧誘の来訪者の音声を、居留守を使ってインターホンで聞くのが、楽しかった。

そんな暇を持て余した妊婦にとって、ある夜の来訪者はとても刺激的だった。


夜の9時頃だったか、とつぜんインターホンが鳴った。
夫はインターホンの画面にうつる50代くらいの男の顔を見て、テレビを消した。静かにしてて、と言い残し出て行く。

特に夫に感情の変化がなくても、「これはなにか違う」と匂いもないのにわたしのセンサーは反応した。

ドアの前で聞き耳を立てると、来訪者のおじさんの声が聞こえた。

「困るんだよ、そういうことじゃ」

どういうことだ?

「借りたなら責任があるだろう」

借りた?なにを?だれが?

「うちも困るんだよ」

困られている…?

何かを借りられて困っているおじさんが来訪したのか。理由はひとつに決まってる。お金だ。

一体なにが起きていたんだ!
わたしは何をしたらいいんだ!
(最初に逃げる算段をつけないで、どうにか出来ることしか考えないのを「後先を考えない無鉄砲な人」だというのだと思う。わたしの中では)


内心の動揺はすさまじかったが、ひとまず「一体何が起きているのか」を知りたい。

おじさんの声をもっと聞かなくては!
それにこの場で、夫はどんな対応をするのだろうか?
その2つ以上に一大事が、ない。(いやある、他にたくさん。と今は思う)
インターホンを押して外の音声を聞くのだ!


借りたのはお金ではなかった。どうやら夫は家を借りていて、その家賃を2ヶ月払い込まないでいるようだ。

どこの家のことだろう。
まさか、この家?

いや、食費はわたしが出しているわけだし、家賃を払うことは出来ているはずだけど。


…おい、どこの、家のことだ。


まさか。夫にはもう一つ家があったのか。
実家は持ち家のはずだし、賃貸の家があるとしたら、その家はわたしの知らない家だ。

「えぇぇ…」

小さく声が漏れる。「ひええ」だったかもしれない。
続きが気になって仕方ない。
もっとしゃべって、おじさん。全てを吐いて!


おじさんが話すところによると、どうやら『家』ではないらしい。『店舗』だそうだ。しかも2ヶ月前に開店し、開店早々、家賃が振り込まれておらず、債権者へ催促するも音沙汰ないらしい。止む無くうちにきたらしい。どうなってるんだ。

状況把握するのと、今何が起きているのかわかるのとは、別のスキルがいるのだと思う。今何が起きているか、よくわからなくなった。いわゆるパニックってやつだ。

会話だけで推測するに、そこは『スナック』のようなものだろうか。
あ、そういえば、夫は少し前にスナックの店舗改装を請け負っていた気がする。まさか。
そのまさかであった。

(保証人になったの!?)


数か月前、彼は個人で仕事を開業してから、小さな仕事でも請け負うようになっていた。その1つが、まさかそんなリスキーな方法で…。

いや、ほんとうに、この、1つだけなのだろうか?
それもわからない。それもこれもどれもわからない。

いや、彼も馬鹿ではないはずだ。
なんでそんな仕事を…


はた、と固まった。わたしが妊婦であることが発覚したのは、3ヶ月半前。
ちょうどこの仕事を請け負った時期がかぶる。
いやいや、偶然かもしれない。
個人事業主になるだけで、リスクとしてはじゅうぶんじゃないか。リスクが嫌だから、あの人は会社勤めを長く続けていたはずだ。でも普通の手堅い仕事をしていたら、個人事業主で細々とでもやっていけると算段をつけたから、開業したのではないか。何か焦ったのか。


インターホンは時間が経つとぶちぶち切れるので、その都度、外部音声のボタンを押して聞き続けた。

きっとこれを見られるのも聞かれるのも、彼は嫌に違いない。それはわかる。わたしも聞きたくはない。だけど、今これを聞かないで、この先一緒にあなたと生きていくことはできない。


なんだか、涙が出てきた。
何を焦ったのだろう。いや焦ってはいなかったのか。甘かっただけなのか。わからない。その甘さの中に、わたしとの未来が入っていることだけは間違いないんじゃないか。君のお人好しに対する信頼は、絶大なのだ。
そのお人好しも甘さも、ひっくるめてあなたの表と裏だ。そのお人好しさ加減に、妊婦になる前からどれほど助けてもらっただろうか。あなたの表が尊いと思うなら、裏だって、尊いに決まってる。

(焦ったの?)
ぼろぼろと涙が出る。いや焦らないといけないのはわたしか。
せめて聞き続けなきゃいけない。やめちゃいけない。

おじさんは最初こそ声を荒げていたが、夫がひらすら繰り返す「申し訳ありません」に手応えがなさすぎたのか、徐々に、トーンが優しくなっていた。

「おたくも大変だとおもうけど、本当に頼むよ。頼むから誠意見せてくれよ」

「はい。申し訳ありません。ご連絡します」

夫が部屋に戻りそうな気配に、わたしは涙を拭いて、聞いていなかった風にトイレにこもった。出たら、彼にお茶を入れてあげようか。でもそんなことしたら、聞き耳を立てていたことがバレちゃうかもしれない。

「長かったね~」

何気なくなるようにそう言って、トイレから出てきたわたしに、夫はぶっきらぼうに言った。

「お前、聞いてるなよ…」

「え?」

「インターホンで聞いてるのバレバレだよ。何度も何度もポチポチ…」

「えええええ!?!?
インターホンって、中でボタン押してるの、外の人わかるの?!」

「いやもう、恥ずかしい」

恥ずかしい!?何その日本語!今それ?いま、それなの?
っていうか、どうしよう。。。


わたし、これまで居留守使って、いろんな人の声聞いてたけど、、、
まさか、居留守して音声を聞いているの、バレてたの?(いまそれ?)

よくこんなに長い時間、無人の部屋の前で、宗教の話をしてるな~と感心していたのだ。もしかしたら次の家へ行く前の練習なのかなとか。後ろで、誰かが指導して聞いてるのかな、とか…。

いやもう、恥ずかしい。


そんなわけで、あのときのことは『インターホンは外部音声にしていることがバレバレ』という教訓と、あと他にも今日まで夫と一緒にいるには、とても大事な時間になったような気がする。

そして、あのときからちょっとかなり大事なところがいくつも抜けている自分に、今、やっぱり、驚いている。

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