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自己紹介~HISTORY~Part1

森健太郎

出身地:山形県米沢市

生年月日:1985年7月19日生まれ

血液型:O型 星座:かに座 足のサイズ:27:5(偏平足)

年表

2009年 東北学院大学経済学部卒業

2009年 都内の法人向け事務機器の販売会社へ入社

2010年 上記の会社を早々に退職し、喫茶店と接骨院でバイト
       その後、都内のPR会社へ転職

2011年 東日本大震災

2014年 都内の広告代理店に転職

2018年 宮城県にある精密機器メーカーへ転職

2022年 森健太郎デザイン事務所を設立
      山形大学 国際事業化研究センターへ入局
      人生初のパーマをあてる

2023年 事業の基礎分析プログラム「Spell」提供開始

私は山形県米沢市という牛肉と上杉鷹山と工業団地がある街で、3人兄弟の長男として爆誕しました。

実家は少なくとも江戸時代から米沢にあり、先祖は越中の椎名家というところの出自だそうです。

同居していた父方の祖父母が早くに他界したため、当時の田舎では珍しいサラリーマンの核家族でした。

父はカーディーラーの営業マンでしたが、祖父の代までは織物の工場を営んでいました。私が生まれた頃には既に織物工場は無くなっていました。

~幼少期~

幼少期の私は、両親が共働きでしたので家で1人で遊んでいる子供でした。
友達がいないとかいじめられていたわけではないのですが、別に学校が終わってからも遊ばなくてもいいじゃんと考えていました。

本当は運動やゲームが得意ではなかったので、友達と遊ぶのが億劫だったのもあるのですが。

家ではひたすらディズニーがジブリのビデオを見ていました。兄弟全員で楽しめるものをいう母親の意図でビデオだけは大量に家にありました。

その影響か絵や歌は昔から得意でしたし、アメリカンジョーク的な笑いのセンスは幼少期に習得したものと推測しています。

ビデオを見ている時以外は絵を描いているか、インラインスケートをしているか、カッターで何かを削っていました。

当時から何かを作るのは好きなのですが、手先が器用ではなかったので夏休みの工作などはほぼほぼ祖父に作ってもらっていました笑


中学校と高校はバレーボールをやりました。本当はサッカーがしたかったのですが、運動が苦手だったで一番走らなくていい(だろう)バレー部に入りました。

部活で使うシューズやウェアを買うためにスポーツ用品店に行くと、バレーボール以外のサッカーやバスケのシューズがとてもかっこよく見えました。
私はスポーツ用品店に行く度にサッカーやバスケのカタログを片っ端からもらってきて、家で1人でほくそ笑んでいました。

そんな経験から、高校卒業後は工業デザイナーになってサッカーのスパイクや調理器具などを設計したいと考えました。

しかし、当時の私の調べでは千葉大にしか工業デザインの学科がなく、そこに進学できる学力もありませんでした。

千葉大に行けないのならスキー場でバイトすればいい。くらいの気持ちでいたのですが、両親から「大学だけは出ておけ」という指令の元に東北学院大学に進学したました。


~就職~

学生時代をしっかり遊び惚けた私にも卒業と就職が迫ってきました。
特にやりたい事もなかったので、何かの営業職か何かの事務職に行ければいいなと考えていた私にちょっとした転機が訪れました。

イベント会社で携帯電話の販売のアルバイトをしている時でした。
ドコモから「N702iD」という機種が発売されました。カキカキした外装と近未来的なディスプレイに心奪われました。


薄型でカキカキしてかっこいい


機能をそぎ落として、小型化することもユーザー目線のナイスなデザイン

カタログをよくよく見てみると佐藤可士和さんのプロデュースでした。
佐藤可士和さんと言えば、楽天やユニクロのロゴデザインを手掛ける著名なデザイナーです。

佐藤可士和さんは多摩美術大学卒業後、博報堂を経てデザイナーになったという経歴を見て、「絵が描ける⇒広告代理店⇒デザイナーになれる」のような安直な方程式が私の中で成立してしまったのです。

ということで、リーマンショックの影響が世の中に出始めた2008年に、広告代理店を目指して上京したのでした。

続きはPart2で。

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