リリルの樹⁑2


 リリルはリスが持ち逃げた"種子庫"という大きめの手帳サイズのファイルを取り返すべく、森の中を歩いていた。

 「わっ・・・・・・とと! ふぅ・・・」

 苔が目立ち白い光に満ちていた先までの森とは違って、ここは忘れ去られた過去の遺物のようだった。地面には枯れ枝が散乱し、その無粋に伸びた枝を一歩一歩またぎながら進むしかない。リリルはすでに何度も躓いて転びそうになった。転んだとしても枯れ枝の上に倒れ込むので地面に膝小僧を打ち付けることはなかったが、代わりに折れてささくれ尖った枝先が体のあちこちに刺さって痛かった。受け身をとろうと突き出した手の平は真っ先に傷だらけになっていた。

 他の道を探したい。そう思い始めていたばかりの頃は頭を振って自分の弱い気持ちを追い払った。しかし、いくら枝をまたいでもかすり傷が増えようとも、景色が変わることはなくリリルを導く緑青王は自分が道しるべであると言わんばかりに青白い光を纏ったまま真っ直ぐ進んでいる。壁のように堆く積まれた枝の隙間をするりと通り抜けた。

 緑青王は体が小さいし飛ぶことができるから枝が散らばっていようが積まれていようが関係ない。だが、リリルはそうもいかないことを彼は承知していないようだった。

 リリルは枝の壁を前にしてついに立ち止まった。疲れてしまったから、ということもあったが違和感を覚えたのだ。緑青王たちと道を別れる前までいた森とは雰囲気が一切変わってしまったが森から出た気はない。ひとつの森といえど方角や高度によって生育している植物や暮らしている動物の種類が違い、それ故に森の景色も変わってくることはもちろんのことだ。しかし、ある時から急に森が荒れだした。木々は空を隠すように茂っているというのに、それに見合わない無数の落下枝──枝ばかりに気をとられていたが、中には茨の残骸もある。枝に触れた記憶がないのに小さな切り傷がついていたのはこの針金のように細く絡まっている茨の棘のせいらしかった。それによく見れば人の指の長さほどもある棘のついた枝も落ちている。あんなのを踏んでしまったら大変なんてものじゃない。

 ──変だ。絶対に。

 リリルは緊張から鼓動が速くなりつつあるのを感じた。この森は明らかに何者かの立ち入りを拒んでいる。

 つまりこの落枝のように見えた枝らはバリケードではないか?断定的な疑問が頭に浮かんでからは、こちらを振り返って待っている緑青王を疑念のこもった目で見てしまう。

 『・・・・・・・・・───』

 「!」

 緑青王の声が聞こえる。気がするのではない、確かに耳に届いた。距離があるため内容までは聞き取れなかったが、先まで目で会話するしかなかった相手と言葉を交わせるようになったことは今のリリルにとっては大きな不安解消材となった。

 「あのっ! 本当にここにリスが逃げてきたのかな? 」

 『ソウダヨ 逃ゲテキタヨ』

 今度はちゃんと全ての言葉が聞き取れた。言葉のイントネーションは他の緑青王たちと同じだが、この王は他の王たちよりも言語が発達しているように思う。

 リリルは初めて緑青王と会話ができたことに強い喜びを覚えながらも冷静になるよう努めて続ける。

 「そうなんだ・・・でも、ここはあまり入ったらいけないような気がするの。他の道を一緒に行ってみない?」

 『ダイジョウブダヨ 皆はダメダケド リリルハイインダヨ』

 「・・・・・・どうして、わたしはいいの?」

 『リリル ダカラ』

 気のせいなのだろうか。緑青王が纏っていた光は澄んだ青白いものから濁った赤さび色になっている。それがどうしようもなくリリルの不安を煽っていた。気のせいであってほしいと願うほどに。

 『オイデ リリル コッチダヨ』

 ふわふわと体が揺れる度に赤錆のオーブが散り、昇華していく。それを見て息がつまるような感覚を覚えるのは、実際に見たことはなくとも想像に容易い血飛沫を連想させるからだろうか。

 『オイデ オイデ クグッテ オイデ』

 リズムのある声は楽しそうに踊っているようなのに、歌声が不協和音に聞こえる。

 『クグレバ コッチ リリル ウフフ』

 赤い緑青王は待ちきれないという風にダンスを始めた。空中でくるくると前転をして仰向けになったかと思うと腹を抱えて笑い出した。リリルには何が可笑しいのか全くもって理解できない。これまで彼が一緒にリスと種子庫を探してくれていたと思っていたが、それは勘違いだったのではないかと思えてくる。そして、それに気がつくのが遅かったのではないかとも。

 「あの、」

 リリルは震える喉で乾いた唾を飲み込み、大きな声を出して声が震えるよりかは小さな声で落ち着いた格好を見せた方がいいだろうと思い喋り始めた。

 「わたし、これ以上は進まない。元に戻って、自分で道を探すよ。ここまで道案内してくれてありがとう」

 きょとん、としているのが遠目からでもわかる。王を縁取る赤錆の鈍い光が不安定に揺れているのも見えた。それが余計にリリルの緊張を呼び立てる。赤色は興奮を掻き立てる色だと昔、祖父が言っていたことをリリルは思い出していた。もっとも、いま赤色を目にしているのはどちらかというとリリルの方だったが、もし感情を色で表すとしたら・・・・・・とそこまで考えた所で王が口を開いた。

 『クグレナイナラ 手ヲカスヨ』

 「え・・・・・・?」

 ぐらぐらと揺れていた鈍赤色の光は勢いを弱め、元の青白い色に戻っていた。

 『オイデ ホラ モウ少シ』

 来た道を王が戻ってきて積まれた枝の壁の向こうでリリルに手を差し出した。リリルはいくらか胸を撫で下ろしつつ、首を横に振った。

 「大丈夫。この枝を潜るつもりはないの。もし誰かのおうちが近くにあったら、きっと勝手に入ってほしくないと思うから」

 『・・・・・・ソッカ ワカッタ』

 王は差し出した手を力なく垂らした。その姿が寂しげでリリルの心が痛む。もしかすると遊び相手が欲しかったのかもしれないと思った。

 「もし良かったら元の場所まで道案内をしてくれないかな?あなたがいたから頑張ってここまで来れたけど、この帰り道を一人で行くと挫けそうなんだ」

 王が誘いに乗ってくれると嬉しかった。断られたとしても一人で行くつもりだが、ここで別れる彼に改めて感謝しようとも思っていた。王は悩んでいるようだったが暫くして陽の光のような淡い明かりを瞬かせた。

 『ボクモ行ク リリルノ為ニナリタイ』

 「! ありがとう・・・!」

再び王の手が差し出された。その手をとれば強い繋がりが生まれるような気がして、リリルは胸が高鳴った。不安はどこかへ消えてなくなっていた。それよりも彼との短い旅路への喜びの方が勝っている。

 リリルは王の手をとり歩むべく、枝の壁の隙間に手を伸ばした──瞬間。

 「いたっ!」

 頬にピリッと痛みが走った。反射的に利き手で痛みを感じた部分を覆う。王は触れる寸前にあったリリルの手を目で追ってリリルの顔を見上げた。

 『ダイジョウブ?』

 「うん・・・・・・バラの棘に当たっちゃったのかも」

 手が離れたそこには小指の爪ほどの長さの切り傷ができており、僅かながら血が滲んでいた。肌が白いため鮮血がより鮮やかに見える。リリルはポケットからハンカチを取り出して患部を何度か叩き血を拭った。

 『止マラナイネ』

 「意外と深いのかなぁ・・・」

 『ボクガ止メテ アゲル』

 「?」

 枝の壁をするりと抜けた王はリリルの顔の目の前にやってくる。

 「どうするの?」

 『コウスル』

 口らしき部分から鮮やかな青色をしたものが出てきた。ベーと言いながら出してきたことからして舌のようだ。例えるならばそれは多肉植物の葉のような質感に見える。

 リリルは舐めて治すという発想に思わず笑った。

 「大丈夫だよ!絆創膏を張るから・・・」

 そう言って、はたと思い出す。旅の途中、宿のない場所故に野宿をすることになったため焚き火をたき、鍋に張った水が沸騰するのを待っていたリリルは、どこからともなく現れたリスに眺めていた"種子庫"を持ち逃げされ、それを追いかけた。旅にかかせない道具があれこれ入ったリュックを背負う暇などない。リリルは身一つ、この深い森を彷徨っていた。

 「・・・・・・小さいかすり傷だから放っておいても大丈夫!」

 "種子庫"に気をとられるばかりですっかり忘れていたことがあったことを思い出したリリルは、火が風に煽られてリュックやテントに燃え移っている光景を想像したところで不安を吹き飛ばすように笑った。何事も起きていませんように・・・と祈りながら。

 『舐メル』

 「え?」

 流血はほとんど止まっていたが、王は青い舌を出したままだった。

 「もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 『舐メル 舐メタイ』

 「ええ?」

 その必要はない、と言う前に王が頬に近づいてきた。嫌な予感がして身を引くと、あの赤錆色の光が見えた。


 『リリルノ血 欲シイ』


 緑青王などという名前にはほど遠い姿がそこにはあった。顔の半分以上を埋めるほど見開かれた目がリリルを映している。体から滲み出ている鈍い光の反射のせいか、周囲が歪んでいるように見えて眼球に痛みを覚えた。

 『欲シイ 血 欲シイ リリル』

 「!?」

 リリルの道標ではない。彼女に危害を加える者──むしろ、彼女の命さえ奪おうとしているのは明白だった。

 「わっ・・・!?」

 逃げろ。生物としての本能が警鐘を鳴らした瞬間に足を動かしたが、散乱した枝に絡まって派手に転んだ。鋭い枝や棘がリリルを刺す。立ち上がろうとすればささくれ立った樹の繊維が服にひっかかり、彼女を引き留めた。もがけばもがくほど身動きがとれなくなっていくようだった。焦りが募る。それに比例して王が"肥大した"。


 『ゴチソウ ダ』


 腹の底に響くような低い声が聞こえたと思えば、暗闇の中にいた。だが、それも一瞬で、瞬きをした後には最早見慣れてしまった散らかった森が広がっていた。

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