リリルの樹⁑3


 状況が飲み込めず落枝の絨毯に倒れ込んだままぼうっとしていると、耳をつんざくような声が聞こえた。

 「リリル!!!」

 「ぎゃ」

 反射的に飛び上がると、絡みついてくるようだった枝や棘が服からぽろりと落ちた。

 バキバキと枯れた枝を踏みつける音が近づいてくる。リリルがその音の方を振り返る前に、場に不釣り合いなショートブーツが目の前に現れた。胸のあたりにじわりと安堵が広がっていくのを感じながら、そのブーツの主を見上げようとしたその矢先、これまた先回りしてリリルの視界に少年のツンとした顔が現れた。

 「ネム・・・・・・」

 その少年の名前を呼ぶと、力が抜けた。自分が思っていたより気を張っていたことにこのとき気がついた。

 <ネム>と呼ばれた少年はリリルの視線に合わせてしゃがみ込んだまま彼女の状態を確認する。全体的に疲弊、顔色よし。足、切り傷深め、感染なし。手、切り傷、かなり多いが感染なし。服、ほつれ。首から下は外傷その他につき自然治癒可。問題は、首から上。

 「顔の傷、さっきの奴にやられたの?」

 鮮やかなピンク色の瞳が眼光鋭くリリルの頬の傷を見つめた。

 「ううん、これは・・・・・・そこの、枝でできた壁に近づいた時に切っちゃって」

 「棘に気付かなかったってこと?」

 「そうみたい」

 「・・・・・・・・・」

 ネムは、安堵からか笑みさえ浮かべるリリルに今のこの感情のまま怒鳴りつけてやろうかと考えたがこれ以上彼女に疲労を与えたくないと思い直し、ひとつ息をついた。

 「この枝の向こうに行かなかったのは偉い。危険予知が働いたみたいで良かったけど・・・・・・いや、見るからにやばいから気がつかない方がおかしいか」

 「うんうん、やっぱり変だよね」

 「変なのにわざわざこの足場の悪い中よく歩いてきたよね」

 茨の棘よりも鋭い言葉だがリリルはぐうの音も出ない。不穏を自分の気の弱さと勘違いした末、危険な目に合ってしまった。こうしてネムにも心配をかけたことにリリルは猛省するほかない。

 「ごめん・・・・・・」

 「もういいよ」

 背を向けたネムに胸のあたりがズキと痛む。

 「ほら、行くよ」

 「!」

 彼が背を向けたのは、リリルを背負うためだった。

 そうだ、ネムはこういう人だった。と思い出すのが先か、その背中に飛びつくのが先か。リリルはネムの首に抱きついて「ごめんなさい」と改めて謝った。ネムはわざわざ返事を返すことはしない。

 スラリとした体躯のわりに自分とほぼ同じ身長のリリルを背負って立ち上がっても揺らぎはしなかった。ネムはリリルを背負いなおすこともなく、現れた時と同じようにバキバキと落枝を踏みならしながら拠点へ戻っていく。リリルは自分とは全く違う進み方に感心しながら、見る間に白い光を取り戻していく森を見て自分がいかに時間をかけて僅かな距離を進んでいたかを思い知った。そして、あの区域がいかに異様だったのかも。


***

 「緑青王はどこに行っちゃったのかな?」

 岩に腰掛け、ネムの治療を受けているリリルは帰り道の途中ずっと気になっていたことを投げかけた。ネムはリリルの手についた切り傷ひとつひとつに軟膏をぬり、丁寧に絆創膏を張りながら呟くように答える。

 「そこにいるじゃん」

 「・・・・・・そのひとじゃなくて」

 岩陰に咲いた花の近くに確かに緑青王がひとりいる。鼻歌でも歌っているのだろうか、リリルを見上げたまま首を左右に揺らしている。

 「あの枝の壁があったところにも緑青王がいたんだ。ネムも見たんだよね?」

 「見た」

 「どこに行ったかは・・・?」

 「見た。壁の向こうに逃げていった」

 「そうなんだ・・・」

 緑青王が悪者に変貌するということをネムに伝えるべきかどうかリリルは悩んでいた。王が逃げていくのを見たのなら自分たちになじみのある緑青王ではなくあの鈍赤の王の姿を見たということだが、ネムがその正体について聞いてくることはない。ということは、あの王についてすでに知っているのだろうか?

 ──そういえば・・・、

 「おじいちゃんと旅をしてる時にさっきの生物と出会ったことあるの?」

 「あるよ」

 やっぱり!

 「あれって緑青王の仲間なの?」

 「はァ?あのどこが緑青王だって?」

 「緑青王だよ!ちゃんと言うと、緑青王"だった"だけど・・・・・・」

 緑青王特有の青白い光を放っていたのが突然赤錆色の光を放ち始めたこと、終いには姿まで凶悪化してしまったことを話して聞かせる。

 ネムはリリルの辿々しい説明を最後まで黙って聞くと、眉間に皺を寄せて視線を下げた。その表情はどこか侘しさを孕んでいる。

 「ネム・・・?」

 心配になって名を呼ぶと、ネムは絆創膏をリリルの右手の薬指に巻いて「はい終わり」と救急箱の蓋を閉めた。

 礼を言いながら絆創膏のゴミをまとめるリリルを視界の端におさめたままコップにお湯を注ぐ。火にかけたままだったので蒸発して大分減ってしまっていたが、二人分のお茶をつくるには問題ない。不織布に包んだ茶葉が湯にあてられ鮮やかな緑色に変色しながら身をほぐしていった。

 「家に帰る気になった?」

 お茶の入ったコップをリリルに持たせ、代わりに団子状にまとめられた絆創膏のゴミを受け取る。ネムはリリルの隣に座って目線だけを動かし、きょとんとしている彼女を見た。

 「どうして?」

 「どうしてって・・・」

 一番最初に張った頬の絆創膏を真正面から睨む。

 「旅に出て三日目でそれだよ?危険に飛び込んで行ってるってわかったでしょ」

 「わかったよ」

 「だったら・・・」

 「わかったし、ある程度は話を聞いてわかってたから、それが旅をやめる理由にはならない」

 「・・・・・・・・・」

 「わたし、どうしてもおじいちゃんに会いたいの」

 リリルが旅に出た理由。それは、手紙を残して姿を消した祖父に会うためだった。

 「・・・・・・でも、」

 ガサッ!

 迷った末、食い下がろうとしたネムの言葉を遮るように近くの茂みが不自然に揺れた。

 「えっ何──ぶわ」

 驚いて立ち上がろうとしたリリルの鼻にネムの背中がぶつかる。いつの間にかネムがリリルを自分の背に隠すように立っていた。隣に座って一緒にお茶を飲んでいたと思ったのに、まさに瞬きをする一瞬のうちの出来事だった。リリルは、森で起きたことを思い出していた。あの時も凶暴化した緑青王が一瞬で消えたと思ったらネムが現れたのだ。

 「獣かも」

 「猪とか・・・!?」

 いざとなれば後方に引っ張って自分が身代わりになれるようネムの腕を両手で握る。それと同様にネムもいざという時すぐにリリルを安全な場所に移動できるよう後ろ手にリリルの腰に手を回した。

 さあ出てこい。

 覚悟を決めた二人の思いに応えるように茂みが再び揺れ、ひとつの影が夕日に照らされた───。

 「・・・・・・リスだ」

 「わあ~かわいい~!」

 シマリスを思い浮かべると度肝を抜かれるであろう大きなリスだ。

 腰に手をあて肩を下げながら大きくため息をつくネムとは対照的にリリルは大喜びでリスに駆け寄る。すると、リスはその身軽さでリリルを駆け上り、肩に乗って得意げに鼻をひくひくと動かした。その姿にピンク色の瞳が細められる。

 「間違ってもリリルに爪歯立てるなよ。立てたらその瞬間からお前は肉だ」

 瞬間、リスはたじろぎリリルの髪の内側に身をひそめた。その大きな体では全てを隠すことはできなかったが。

 「わたしが悪くしなければそんなことしないよ~はぁ~~もふもふ~~!」

 一方、リリルは首に巻き付いてきたリスの尻尾の毛並みを満喫していた。

 「ふふ、なんとなく樹の匂いがする!かわいい!」

 「樹の匂いなら俺もすると思うけど」

 「あ、そうそう!ネムもすごく樹のいい匂いする!でもこの子とはまた違う匂い」

 「・・・・・・どっちが好きなの?」

 「えー?」

 リスのしっぽに顔をうずめ、しっかり嗅ぎながら悩むリリル。それを見て次は自分が嗅がれる番かと、ネムは緊張しはじめた。しかしリリルがネムの匂いを嗅ぎにくることはなく、暫くして「どっちも!」と笑顔で言った。

 「そういえば・・・・・・この子どこかで見たことがあるような?」

 顎に人差し指をあて、探偵さながらに記憶を呼び起こし始めたリリル。「こんな奴その辺にわんさかいるもんね」と、突っ慳貪に言うネムを気にとめる様子はないままうんうんと唸っている。

 ネムはリリルの治療が落ち着いてから聞こうと思っていたことを良いタイミングだ、と持ち出した。

 「そういえば、なんで急に森の中に入ったの?」

 当時、ネムは水を汲みに行っていた。火の番をしながら待っているはずだったリリルが荷物も持たずにどこかへ消えていたことに気が動転して自分も身一つでリリルの気配を辿って森へ入った。その時は散策に行ったのだという考えさえ浮かばないほど焦っていたことは黙っておく。余裕のない性格はネムが考える理想の男性像とはかけ離れているからだ。それに、ただの散策だと思って待っていればリリルは今こうして笑いながらリスと戯れることはできなかっただろう。あの時の自分は理想的ではなかったが、最善だった。

 「あっ・・・・・・」

 リスのしっぽを撫でるのをやめてビタッと固まるリリルに嫌な予感がする。

 「何、どこか痛むの?」

 「え、あいや、あっと・・・そうじゃなくて、そうかもだけど・・・・・・」

 「・・・・・・別の嫌な予感がしてきたかも」

 「んー! んんっと・・・!」

 急に汗をかきはじめたリリルにネムの目がジトリと細められる。リリルがしょうもない失敗をした時に向ける視線だった。こういう時は早く報告した方がいいことをリリルは知っている。

 「じ、実はっ・・・・・・"種子庫"をなくしちゃって・・・!」

 「わかった。その肉いますぐ捌こう」

 「どうしてわかったの!?」

 ネムにバレない嘘などない。"種子庫"はリリルがなくしたのではなく、リリルの肩で震えているそのリスが盗んだのだ、とネムが理解するのは一瞬だった。

 「わ、わたしが悪いの!外で"種子庫"を不用意に開くなって言われてたのに眺めてたわたしが悪いの!」

 「"種子庫"はリリルのものなんだから俺がなんて言おうとリリルの好きにすればいいよ。ただ俺はリリル以外が"種子庫"に触るのが許せないだけだから」

 「わー!わー!やめて!!」

 リスに焦点を合わせたまま瞬きをせずに手をのばしてくるネムからリリルは必死に逃げる。リスは恐怖で縮み上がってしまっていてリリルの肩から逃げることもできないでいた。

 「リスは種が主食でしょ!?種がたくさん入った本があればそりゃ奪いたくもなるよ!自然の摂理だよ!」

 「じゃあ強者が弱者をエサにするのも自然の摂理だろ」

 「もおおーーー!!」

 静かに怒りを燃やし追いかけてくるネムからリリルは走って逃げる。昼に森を歩き回っていたこともあり、すぐに疲れが出て息があがった。それに加えて今は3キロはあるだろうリスを肩に乗せている。

 「"種子庫"は絶対に探すから許し──わ!?」

 「リリル!」

 何かに躓き前のめりになる。リリルの体の重心が前方に傾いた瞬間、リスがリリルの肩から飛び上がって眼前の枝に着地した。次の瞬間、倒れてきたリリルのおでこに尻尾を当てて思い切り撥ねのければ、リリルは転ぶことなくその場に立ち止まった。

 「あ・・・・・・ありがとう・・・」

 見事は尻尾技に驚くほかない。リスは一世一代の大仕事に鼻息を荒くしたまま地面に降り立った。流石に尻餅をついて休息をとっている。すると、リスが座っているすぐ隣に何かが落ちているのに気がついた。リリルが何かに足をとられた場所だ。それはどうも年季の入ってひび割れが酷いファイルのようで・・・。

 「あ!あった!!」

 拾い上げたそれは間違いなく"種子庫"だった。駆けつけたネムもそれを確認し、ほっと息をつく。

 「でもどうしてここに・・・」

 「灯台もと暗しってこのことかぁ」

 「・・・・・・いや、そうでもないかも」

 「?」

 隣にしゃがんだネムの視線の先を追うと、青白い光を身に纏った緑青王たちがリリルを見上げていた。

 「! あなたたちが見つけてきてくれたの?」

 王たちは不思議そうにリリルを見つめるばかり。枝の壁の前では話すことができたが、やはりあの王が特別だったらしい。本当の緑青王とはまだ会話は叶わないようだ──と、寂しさを覚えた時だった。

 『リス』

 『オシャベリリ』

 『イイコ』

 『話セバ ワカル』

 『我々 ドウシ』

 『ナカ ヨシコ』

 ぽそぽそ呟くような声がリリルに聞こえていた。まるで井戸端会議のようにそれぞれが好きに喋っては適当な所でウンウンと首を縦に振っている。

 「・・・・・・・・・聞っ・・・」

 地面に膝をついて緑青王たちを覗き込んでいたリリルがネムを振り返る。その目はなんとも言えない喜びに揺れ輝いていた。加えて、嬉しさのあまり声も出ないらしい。異形の緑青王と会話が成り立った時は緊張の方が勝っていたが、本来の彼らの姿の前では素直な感情があふれ出るようだった。

 ネムは自分に必死に喜びを伝えようとしているリリルに微笑みを向ける。するとリリルはもっと嬉しくなって、緑青王を抱きしめんばかりに地面に突っ伏した。

 「あ、こら!服が汚れるだろ!」

 「もう汚れてるからいいのー!」

 そう言うと仰向けに寝転がって気持ちよさそうに目をつむった。

 『リリル ネルネル』

 『オヤスミ 歌ウ?』

 『ネンネン コロコロ』

 『オコロンロン・・・』

 王たちもリリルの腹の上に寝転がったり、寄り添ってぼうっとしたりと、好きに過ごし始めた。リスもリリルの肩口で丸まって眠る体勢に入っている。

 「みんな、ありがとうね」

 祖父から受け継いだ"種子庫"を胸に抱いて呟くように言ったリリルは、すぐに眠りについた。小さな寝息が焚き火の爆ぜる音の合間に聞こえてくる。

 「・・・・・・いつもこうだ」

 呆れたように言う割に、口元は孤を描いている。ネムはテントから毛布を取り出してきてリリルにかけてやった。もう暫くそのまま寝かせておこう。動かしても起きないくらい深い眠りに入ったらテントへ運んで、風邪をひかないように。

 ネムはリリルが寝ている場所の近くに焚き火を作り直した。あまり近づけすぎると今度は火の粉が散って火傷をしてしまうから、ほどほどに。

 『・・・・・・・・・』

 「・・・・・・何」

 ひとり、リリルから離れてネムの足下にいる緑青王がネムを見上げている。いつからいたのだろう、頭の天辺に火の粉がゆらめいているが、それに気がついているのかいないのか、はたまた熱さなど感じていないのか。

 「・・・・・・火、ついてますよ」

 指摘してあげれば、ようやく目が自分の頭の方へ動いた。その短い手で火の粉がかかっている頭をかくと、ようやく消火した。

 『ネムネム』

 「・・・・・・・・・」

 間の抜けた呼び方は気に入らなかったが、目上の者に「やめろ」と言う気にもなれなかったネムは代わりに微妙な顔を隠すことなく、王の続きの言葉を待った。

 『アイボウ ジモク』

 「!」

 たった二つの単語だったが、ネムには王が何を言いたがっているのかがわかった。そのことに僅かな憤りを覚え、そして胸に針で突かれるような痛みを感じた。

 今度は王がネムの言葉を待つ番だった。

 陽が沈んでいく。茜色の空はあっという間に藍色に移り変わった。

 結局、ネムは辺りを闇が包み隠す前にリリルをテントに連れて行き、自身も眠りについた。彼はテントを必要としない。真っ先に朝日を浴びて目を覚まさなければならないからだ。

 朝が来れば朝食の準備をしてリリルを起こす。そして、リリルの祖父を探すあてのない旅が続く。

 言わねば、リリルに。もう会えないのだと。じいさんは──ジモクはもう、いないのだと。傷口がすぐふさがる内に、早いうちに。

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