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福澤諭吉の会食論

明治前期における福沢諭吉の会食論  小室正紀

会食と文明
このところ、政治家の会食が問題となっている。コロナ禍の中で、国民に会食自粛を求めている時の催しであったことが、人々が批判した主な理由であったが、同時に、その際の贅沢な料理が大方の眉をひそめさせた。

このような、報道に接して、思い起こすのは会食についての福沢諭吉の考え方である。

福沢は、人々が会合すること自体は非常に重視していた。例えば、『学問のすゝめ』第十二編では、「談話」によって人と「智見を交易」することを、学問の不可欠な一部としていた。また、『文明論之概略』第三章では、「世間相交あいまじわり人民相触あいふれ、その交際愈いよいよ広く、その法愈整う」ことにより、人々の「智識」が開かれ、「才智」が発生し、文明が進むと考えていた。この「世間相交り人民相触れ」るための機会として、様々な会合を、福沢は極めて重視したのである。

 福沢が門下生らと共に明治十三年一月に発会させた交詢社も、この考え方に基づき、人々の交流交際を目的としていた。「交詢社設立大意」[1]によれば、同社の目的は、「知識を交換し世務せむを諮詢しじゅんする」ことであった。噛み砕いて言えば、知識を交換すると共に、各人がかかわっている仕事や事柄を話題にして、互いに相談しようということである。その目的を達するために、社則によれば、大会・小会や演説討論会があり、また社員が投稿できる『交詢雑誌』が発行された。

 しかし福沢は、そのような規則上の会合や雑誌を介した情報交換だけではなく、このクラブを場とした私的な対面会合にも大きな価値を置いていた。明治十三年四月に両国中村楼で開かれた交詢社第一回大会において、福沢は、社員が直接に社屋を訪れ、そこにいる役員や他の社員と「邂逅かいごう談話」することの重要性を次のように述べている[2]。

「都すべて人の意見を通ずるの道は必ずしも規則に依より文書に依り法の如ごとくするよりも、却かえって交情云いふ可べからざるの際に於て目的を達すること多きものなり。今日人事の実際に於て、山を語らんとて人に会して、其語次ごじ偶然に河の事に及び、山の談は却て第二着に属して河の談を以て益を得ること大なるが如き、人の常に実験する所なり。」

また、このような私的な対面の交流こそが「智識交換世務諮詢せいむしじゅんの最も鋭敏な部分」だという考え方から、そのための交流の機会として「親睦の宴」も必要だと考えていた。

華美豪盛な宴会を戒める

このように、私的な会合や「親睦の宴」を重視していた福沢だが、そこでの飲食・会食について、豪盛な「親睦宴」には批判的であった。明治十三年二月七日に東京築地の壽美屋で行われた交詢社委員と有志の集会に続く親睦会に際して、この点について戒めのスピーチしている[3]。このスピーチでは、なぜ質素な会食が好ましいかについて、論じているので、以下に紹介したい。

まず福沢は、当時の「懇親会」「親睦宴会」が、ある程度の知識層ともいうべき「士人」「学者士君子」の集会であっても、その多くが軽蔑すべきものだと指摘する。それらの宴会は往々にして、「酒池肉林しゅちにくりんに非あらざれば宴を成すに足らず、絲竹管弦しちくかんげんに非ざれば興を催すに足らず、以もって自から豪盛と称して得色とくしょくあるが如ごとし」という有様であった。そのような宴につき、福沢は、「君子にして他に精神を慰めて交を結ぶの術を得ざる歟か、体を知て心を忘る、恥ず可べきの甚はなはだしきものと云いふ可し」と述べ、「心事の賤劣せんれつなる」ものと極めて厳しく批判している。

 しかし、以上の批判だけであれば、「士人」「学者士君子」は、宴会においても華美を避け精神的でなければならないという単純な道徳論に過ぎない。興味深いのは、これに続けて、なぜ華美豪盛な宴会は好ましくないのかを、彼らの社会との関係に注意を喚起しながら論じている点だ。

 第一は、一夕の宴席に多額の金を費やすことが「朋友全体に対して恥るものなき歟か」という点である。朋友といっても、その宴に出席している者だけではない。かつての親友で今は地方で暇なく働かなければならない者、都下で世間を避けて暮らさなければならない者、貧に苦しんでいる者、病に罹っている者など、出席できない友も多い。彼らを含めた朋友全体に対して、華美な宴会は、恥じるものでないかを考えるべきだと言う。「親友故旧相助あいたすける」のが人間道徳上の責任だとすれば、宴を止め、あるいは費用の半ばを減じて、その金で「不幸の友を助けるの道を求るこそ精神の愉快ならずや」と福沢は問いかけている。

 第二は、これまでに社会から受けた「負債」を、まずは返すべきであるという点だ。贅沢な宴会に列することができるような地位になった者でも、そこに至るには社会から多くの負債を負っている。父母の撫育はもちろん、学費についても両親はじめ公共の資金や有志者の助力を受け、「社会に対して直接間接の負債ある者」も多い。その「負債を償つぐなひ了すましたる歟か」を考えれば、今は決して華美な宴会に多額の出費をするような「歓楽得意の日」ではないはずだと戒めている。

 第三は、「独立不覊ふき」を守るためである。人生に於いては、金のために志を屈し、言いたいことも言えず、言いたく無いことも言わなければならないことが多い。なぜ、そのようなことが起こるのか。世間の風潮に流され、贅沢を競い、そのために金を得ようとするからである。華美な宴会を競うことも、志を曲げて金を得ようとする原因となり、結果として「独立不覊」を失うことにつながると警告している。

「ミッヅルカラッス」と禁欲

 以上の壽美屋でのスピーチを読んで、筆者は二つの点を指摘したい。

第一は、後年の集会論と比較して重点の置き所が多少違うという点だ。福沢は、明治二十九年にも、『時事新報』で六回にわたって、集会について論じている。そこでは、日本資本主義が離陸を始めた好景気の中で、「紳士紳商」とも言うべき人々が、毎晩料亭で芸妓を侍らせ昏倒泥酔するような醜態を演じていることを厳しく批判している。また、そのような醜悪な宴会に代わるべき会合の在り方として、交詢社のようなクラブでの会合や、自宅での茶話会やパーティーを提案している[4]。このように、二十九年の一連の集会論は、資本主義を担い始めた経済人や官僚に対して、気品のある集会を求める所に主眼があった。

 これに対して、壽美屋でスピーチをした明治十三年は、資本主義はこれからの達成目標であり、その萌芽さえも必ずしも明確とは言えない時期である。また対象もこれから資本主義を担ってもらいたい「士人」「学者士君子」達であった。しかも、このスピーチでは、彼らに対して単に宴会の醜態を戒めているだけではない。守銭奴たれとは言ってないが、品位ある禁欲倹約を求める所に重点がある。特に「独立不覊」を達成するために、華美な風潮に流されてはいけないという点は、これから「ミッヅルカラッス」(中産階級を意味する福沢の言葉)に成長してもらいたい人々に、そのための禁欲を説いていると言えよう。

 指摘したい第二点は、なぜ禁欲すべきかの理由付けである。福沢は、盲目的な信念として禁欲を守るべきだとは説いてない。不幸な朋友親友のことを思い、また、これまでに父母や社会から受けた「負債」に報いるため、さらに自身の「独立不覊」を達成するために禁欲をすべきであると論じている。その理由付けは、一言でいうならば、社会の中での自分の立場役割を合理的に考え、禁欲をすべきであるという論旨である。

 筆者は、福沢諭吉の終生の目標は、知性と経済力と世論形成力を備えた「ミッヅルカラッス」を、日本に社会階層として広く厚く形成することであったと考えている。壽美屋でのスピーチは、その福沢が明治十三年という時点で、これから「ミッヅルカラッス」たるべき者たちに説いた禁欲の警句であった。

 禁欲の意味合いは時代と共に変わる面がある。壽美屋でのスピーチを読み、会食に際して現代の政治家は、どのような禁欲を考えているのだろうかと気になった次第である。



[1] 交詢社編『交詢社百年史』交詢社、一九八三年、二〇−二九頁。

[2] 「明治十三年四月二十五日両国中村楼に於ける交詢社第一回大会演説」『交詢雑誌』一〇号(『福沢諭吉全集』第一九巻、岩波書店、一九六二年、六六五―六六六頁)。

[3] 「明治十三年二月七日東京築地壽美屋に於て演説」『交詢雑誌』第三号(同上『福沢諭吉全集』第十九巻、六六二―六六四頁)。

[4] 明治二十九年の集会論については、小室正紀・松崎欣一共著「解題」『福澤諭吉書簡集』第八巻、岩波書店、二〇〇二年、四〇八−四〇九頁。

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