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シンプルなのに親しみやすい、無印良品の源流──民藝運動の「精神性」について

無印良品に対しては、複雑な感情を抱いている。

記憶している限りでの最初の無印体験は、小学生の頃。当時通っていた塾の近くにあったファミリーマートに、無印良品のコーナーがあった(そういえば最近ファミマで見ないなと思って調べてみたら、ファミマでの無印良品の取り扱いは、2019年初頭をもって終了したらしい)。僕は当時、文房具にとても強い関心を抱いていて、街の文具屋さんやデパートの文房具売場を物色するのが大好きだった。そんな時、たまたまファミリーマートで、無印の文房具に出会った。それまでは小学生男子らしく、メカニックなデザインが好きだったのだが、なぜだか無印のシンプルさにはとても心が惹かれた。子どもながらに品の良さのようなものを感じたのと、それにもかかわらず、高級文房具のような取っ付きづらさがない。その不思議な魅力にしばらく虜になり、ボールペンやシャープペンシル、ノートを無印良品で揃えていった。

文房具への熱じたいは、中学生になる頃には冷めてしまった。それでも、記憶が定かではないがたしか大学生頃には、改めて無印の魅力に惹かれ、服や日用品の多くを、無印良品で構成するようになった。ラグジュアリー的なものへの反発心、ノームコア志向的なものを持っていた当時の僕には、シンプルで親しみやすい無印良品が心地良かった。

しかし、ここ最近は、無印良品をはじめとしたファストファッションブランドに対して、世界的に疑惑の目が向けられるようになっている。とりわけ新疆綿の使用に関しては、「違反は確認していない」と良品計画がコメントしてはいるものの、僕にも「何らかの搾取構造に加担しているかもしれないのに、このまま無印良品のユーザーであり続けていいのだろうか」という後ろめたさやモヤモヤのような感情が湧いてきた。そうしてここ最近、無印良品からは足が遠のいていた。


(※)本ブログは、株式会社PLANETSが発行する雑誌『モノノメ 創刊号』について、そのいち編集部員である僕が、個人的な所感を綴ったものです。このブログを通じて、より多くの方に『モノノメ 創刊号』を手に取ってもらい、既に購入いただいた方にはより多角的に雑誌を読む一助としてもらいたいという目的で書いています。

しかし先日、川崎市の岡本太郎美術館で開催されている企画展「戦後デザイン運動の原点 デザインコミッティーの人々とその軌跡」に足を運び、少し考えが変わった。1950年代の東京、人々の暮らしの中に、家具や道具のデザインへの意識が少しずつ広がりはじめていた時期に、戦後日本のデザイン運動の先駆けとして創設された「国際デザインコミッティー」という運動体の記録。建築家の丹下健三や吉阪隆正、清家清、デザイナーの剣持勇、柳宗理、渡辺力、亀倉雄策、評論家の勝見勝、浜口隆一、瀧口修造、写真家の石元泰博、そして画家の岡本太郎と、ジャンルを超えたトップランナーたちが日本の「デザイン」の礎を築いてきたことがわかり、胸が熱くなる展示だった。

とりわけ、日本屈指のプロダクトデザイナー・柳宗理のデザインにはとても驚かされた。1950年代のものとは思えない、現代のライフスタイルにもすっと馴染むようなデザイン。柳宗理は「アノニマス・デザイン」(「匿名のデザイン」「作者不詳のデザイン」)を唱えたことでも知られるが、それはとても無印良品的で、いま無印で売られていてもまったく違和感がないようなものばかりだった。

シンプルで作家性が薄いのだけれど、なぜかじんわりと温かみを感じるデザイン。もちろん柳宗理は無印良品を手がけたわけではないが、その影響を受けたプロダクトデザイナー・深澤直人が無印良品のデザインを担ったことからも、DNAが通底しているという見方に一定の妥当性はあるだろう。

展覧会には他にも、岡本太郎や丹下健三をはじめ、同時代の俊英たちの作品も多数紹介されていたが、やはり自分には圧倒的に柳宗理のデザインがしっくり来た。あの小学生のとき、ファミリーマートで受けた衝撃を思い起こし、「自分が好きなのはアノニマスデザインなのだ」と再確認。新疆綿などさまざまな問題はあるが、今一度、無印良品を応援してみよう、好きになってみよう。そう思い直した。


しかし、それにしてもなぜ、柳宗理や無印良品のようなアノニマスデザインは、シンプルであるにもかかわらず、無味乾燥にならず親しみやすさのような感情を喚起するのだろうか?

その問いについて考えるとき、柳宗理の父親にまでさかのぼると、少しヒントが見えてくる──「芸術家ではなく、名もなき人の手から生み出された日用品にこそ、美術品を凌駕する美しさが宿る」という信念のもとで作られ、使われる「民藝」を提唱した、柳宗悦である。昨今は民藝を再評価するブームも起こっているので、そのキーワードをメディアなどで目にする人も少なくないかもしれない。ちょうどこの間、東京都国立近代美術館で、「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」という展示もはじまった。


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PLANETSの新雑誌『モノノメ 創刊号』に収録されている、[論考]鞍田崇「 生きる意味の応答──民藝と〈ムジナの庭〉をめぐって」では、この民藝に宿る精神性について、とても刺激的な考察が加えられている。鞍田さんは昨今の民藝ブームに対して、単なる「モノ」としての評価しかなされていないことを危惧し、「生きる意味への問いかけに対する応答」をしてくれる「生の哲学」として民藝を捉えることの重要性を説く。そして、そこで民藝が有する精神性として鞍田さんが指摘するのが「親しさ」や「近しさ」である。

……民藝は、よそよそしいものではなく、本質的には親しさや近しさを有するものである。遠巻きに眺めるものではなく、おのずと「手を触れ」、「抱き上げ」たくすらなるような「あったかいもの」、温もりをそなえたものである。この温もりは、ただ器のそれではなく、それを介して蘇る生の温もりではなかったか。しかも、そこにたちのぼる温もりは、特別な、たぐいまれな、喝采を浴びるような生のそれではない。(p192)

さらにこの論考では、この精神性が福祉にも通ずる点まで論が展開し、その実践が行われている場として、鞍田さんのパートナーである鞍田愛希子さんの主宰する福祉施設「ムジナの庭」が紹介される。

無印良品のデザインを手がけた深澤直人は、現在は日本民藝館の館長も務め、民藝に対して高い評価を下していることでも知られる。柳宗悦からその子・柳宗理、そして深澤直人へ。僕が無印良品に感じていた、「シンプルなのに、親しみやすい」印象の正体が、20年越しに少しだけわかった気がした。



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