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aiaoi

そこに必要な、最低限の灯り。何かを照らすためではなく、そこにあるべくして最初からあるような光。白い器から広がる、スパイスの香り。ベージュのチャイラテの暖かさとすこしの厳しさ。海に近く、海と生きる激しい風の音。そこから守られている、おくるみのような安心感。柔らかく空気を含んだお部屋のリネン。海のゆりかご、という言葉が思い浮かぶ。

大切にするということを、必死に考えた1年だった。もらったことを自分の中に植えて、枯らさないように育てていきたい。甘い果実を実らせて、ちゃんといつか返せるように。

人のなかにも、海があればいいと願った。言葉や涙になれなかった感情が溶け沈んで、その海の栄養素となり、わたしをもっと豊かな人間にしてくれる未来があればいいと。そしていつか不必要になったそれが、死んだ大きな鯨のように浜辺に打ち上げられて、名も知らぬ誰かに弔われますようにと。寒さにこごえながら、涙をこらえながら、切実に願った。逆に言うと、今のわたしには、願うことしかできないみたいだった。

いつもどおり変な夢をみて、いつもどおり絶望とともに起きる。まだ4時半。何度か微睡のなかで懐かしい人に出会い、別れを告げてうつつに戻るを繰り返す。そうしてようやく、導くような光に叩かれてむくりと体を起こす。

朝の海は、陽の光に覆われていた。まぶしくて、まぶしいけど見つめていたら、ちょうど読んでいた本に書かれていたことと、まったく同じ体験をした。

中央分離帯の向こう、まぶしい陽の下にひろがる静かな海は大きな布に似ていた。無窮のかなたをもおおいつくす青い布だ。風は海を愛しているようだった。光も影も海とたわむれたがったいた。誰に言うほどのこともない雑念が胸に起こり、すぐさまかすり傷のようななごりに変わった。生まれたての記憶、とわたしは思った。それは真新しすぎて、まだなにが刻まれたのかさえ判別できない、あまりにやわらかな記憶だった。わたしは海をながめつづけた。永遠をめぐる虚薄な気配が、わたしをとり囲んでいるのがわかった。

小津夜景『いつかたこぶねになる日』

生まれたての記憶を、大切に抱えて宿を出る。わたしはまだ新しくなれるということだけが、わたしを救ってくれるときがあるね。爪に色を塗るときのように、同じに見えてニ度と同じにはならない波のように。

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