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ひろしま神話(Toshi 山口)<第6話>

Rai Sanyo(1)天変地異


 Rai Sanyo英文の論文では、「頼山陽」をこう表記している。Sanyo Rai としたのもある。これはJ・M氏が英文の関係資料を調べていくうち、わかったことだ。
 「頼山陽」は、江戸時代が中期に終わりを告げ、後期に向かう1,780年(安永9年)、父「春水」、母「静子」の長男として大阪で生まれた。これからおよそ百年後、日本は明治維持と言う近代史における大変換点を迎えることになる。 
 ひとことで「頼山陽」という人物を語ろうとすると、どうしても舌足らずになってしまう。「頼山陽」を明治維新と結びつけて考えるのもどうやら早計過ぎる。仮に、歴史を長く連なる連山だとすれば、「頼山陽」は、日本近代と言ううねった山並みに不意に出現した大きな森のような存在だったとでも言えよう。その森に分け入ると鑑賞にたえる名木、名花もあるし、知の果実も実っている。また耳を澄ませば、岩肌をぬって流れる水音も聞こえてくる。いまだ「頼山陽」の根強いフアンが多いのは、何よりその人物にどこかあなたに似た人を感じるからだろう。外国人にとっても、言語の壁を超えて同様である.
 それについては、誰しも異論はないようだ。
 直接、「頼山陽」の理解にはつながらないが、「頼山陽」の生きた時代、日本や海外で何が起きていたかを、ざっとおさらいしておこう。我々初心者はそこから始めるしか方法がない。棚の隅に眠っている年表を取りだして眺めてみるだけでもいいだろう。後は、自身の嗅覚でこの時代を嗅ぎ取るしかない。
 「頼山陽」の生まれた二年後、1872年(天明3年)浅間山が大噴火を起こす。火口から噴き出た大量の火山灰は、関東一円に堆積した。火山灰が地表に堆積すると、豪雨に見舞われた際に、泥状の土砂となって下流にまで押し寄せる。それが発端で、利根川流域の農作物に壊滅的な被害が出た。これが天明の大飢饉を生じさせた原因である。2万人を超える死者が出たと言う。これについては詳細な記録が残っている。
 「頼山陽」の叔父で三次の代官を務めていた「頼杏坪」は、季節でもないのに硯の水が凍ったと記している。日本各地でただならぬ天変地異が人々を襲っていたことが、これらからも伺える。ついてだが、「頼山陽」の家系は、筆まめで日記やら手紙に当時の出来事を細かく書き留めている。なお、この天明には、夜明け前と言う意味があるらしい。
 さて、江戸時代の公共事業は、主に治水にあった。動力を人馬や水車に頼る時代にあって、特に農作物の収穫を図るには、治水工事によって水利の便をいかに保全するかが、もっとも重要であった。江戸時代のような自給自足の循環型社会にあっては、なおさらだろう。その上、米本位制による財政運営では、米の不作は、米を争って反乱の引き金になるばかりか、幕府にとっては、財政基盤を揺るがしかねない一大事であった。米は人びとの胃袋を満たす食糧である一方、年貢であり、財政を左右する税の原資そのものであっ
た。米不足は、米価の暴騰を招いた。幕府は、直ちに、利根川水系にある印旛沼の干拓に着手する。

 海外の状況はどうだろう。
 西ヨーロッパでは、1790年、フランス革命が起きた。同じく、同時期に、イギリスでは、技術革新による工業の近代化が始まっている。最初にエネルギー革命が開花し、人工機関による量産を可能にした。科学技術によって近代化されたその手法は、瞬く間に産業全般に広く応用されていった。産業革命とは畢竟、量産を目的とした生産手法の革新によって生じた社会全般への大きな影響である。これによって、イギリスにどのようなことが生じたか。数多くの植民地を有していたイギリスは、本国を中心として植民地間の資源の移動を容易にし、それらを市場として包囲することに成功した。平たく言えば、多くの国々を近代化していったわけだ。これによってイギリスは最も富める国になった。イギリス産業革命の歴史的な意味は、そこにあった。ただ、この一連の革新の動きと侵略行為とを短絡的に結びつけてよいかは、後日になってから問うべき問題である。と言うのも、技術の革新は技術の革新でしかなく、その革新の効用によって生じる利益、利便をいかに図るかは、その意思を国家に委ねることになるからだ。つまり、当時のイギリス社会が国の意志をいかに受け入れたかを、翻って、技術と社会の問題として改めて問い直す必要がある。歴史をみれば、技術の革新は、未来を明るく照らす灯明として、社会の多くの人々が諸手を挙げて受けいれた。これは何もイギリス社会にだけ限った問題ではない。近代社会とは、自由と工業化された産業がもたらす富とを国家が保障、擁護する社会である。その結果、片方では多くの富を手にしたが、片方では、同じ理由で戦争や紛争を引き起こす火種となった。それもまた歴史が物語る事実である。高度に科学技術が日常化した今日、我々が何かの教訓を歴史から学ぼうとするのであれば、振り返って見るべき点は、ここにある。

 さて、いま問うている問題は、西ヨーロッパの各国でこのような革命が突如起きたかであった。フランスでは、市民革命であり、イギリスでは、産業革命であった。いずれにせよ、革命後、自由と産業の近代化とが、社会に与えた影響は、計り知れない。こうして西ヨーロッパで起きた変革の波は、海を超えて世界各国に大きなうねりとなって伝わっていった。具体的に言うと産業革命によって生じる社会の変革、すなわち近代化を他の国家に迫る波である。そのうねりは、しばらく時をおいて日本にも開国を求める波となって押し寄せた。
 そこまで時代が変革を迫られる背景に一体どのような社会事情があったのだろう。そこが、むしろここでの問題の出発点である。
 考えられる一つの理由が、人口増加である。マルサスの「人口論」が示すように人口増加と生産増加とは比例しない。正確には、人口増加が起きるとその増加分をはるかに超える量の食糧不足を生じる。従来の伝統的な生産手法で、この問題に立ち向かうことは困難であった。
 次に考えられるのが、ヨーロッパを広く襲った異常気象である。1783年アイスランドのラキ火山が大爆発を起こした。これも記録に残る事実だ。火口から噴き上がった灰は上空15キロに達し、北半球全体を覆ったとある。地上では長期に渡たって記録的な寒暖を繰り返し、その影響で食料や生活用品が極度に不足する事態が生じ、人々をパニックに落とし入れた。有害物質を含んだ雨が、大気や土壌を汚染したと言う。ヨーロッパ伝統の観念論と祈りを人々に説いても、この問題の前では全くの無力だった。
 これらを併せて考えると生産手法の革新は、あの当時、何より急を要する西ヨーロッパ全体の存亡をかけた課題だったと言える。フランスでは、日々の食料の分配に預かろうとする大勢の人々が、ついに沈黙を破って蜂起した。これも革新のスピードに拍車をかけている。
 この世紀に登場した芸術家は、こぞって不安な世相を描いている。年代は少し下るがムンクの「叫び」から何を感じとるかだ。皮肉なことに技術革新と言うのは、人類の不安な時代か、または戦争時に理由なく起きている。共通しているのは飢餓への不安と経済の著しい混乱だろう。
 このように不穏な時代ほど、どの分野においても、傑出した人材が現れている。18世紀後半から20世紀初頭にかけては多くの天才を輩出した世紀でもあった。この期間の前半、西ヨーロッパ諸国でその現象は自然科学の分野において顕著で、従来のヨーロッパの伝統的な価値観からすれば、彼らはすべて異端である。


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 年男


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