「鬼滅の刃」の素晴らしさを説明する…、それは人間だから。
今朝、テレビで鬼滅の刃の異例の人気を報道していた。テレビ朝日、モーニングショーの玉川さんは、鬼滅の刃を観ておらず、人気が出たので、観たくないと話していた。
ものすごくわかる。その、あまのじゃくな気持ちは、私も常々持ち合わせており、メジャーとなった作品やアーティストなど食わず嫌いをしては、時折大損をこいている。
だから玉川さんの気持ちはとてもわかるのだが、「鬼滅の刃」は、これは本当に観て欲しい、読んで欲しい。本当にいいですよ。
しかし、番組で玉川さんが、鬼滅の刃を推すアナウンサーに、「鬼滅の刃の良さを説明してください」と言った時、画面のこちら側で私は、言葉につまった。
「私なら何と言うか?こんなに拒絶している人に、何と言うのか?」
…感動するし、…みんなかっこいいし、…。
ダメだ、これじゃダメだ。誰も観ない。
実際、鬼滅の刃の良さなんて、うまく説明できなくとも、「とにかくいい!!」んだから、それでもういいと思うし、もう既に、その良さは幾多の素晴らしい言葉や文章で説明されてきており、私の拙い説明など、何の足しにもならないだろう。
でも、それでも、考えてみた。
何故素晴らしいのか。
この作品の魅力は、もちろんストーリー展開の見事さだ。観始めて(読み始めて)しまったが最後、やめられないし止まらない。
気持ちが入りやすい勧善懲悪の物語でもあり、また、割と意外に仲間が死ぬ。そこがまた目が離せない。
そして、主人公の炭治郎、善逸、禰豆子、伊之助や、柱達など、それはそれはカッコよく、強く、優しい。キャラクターが、誰も彼も魅力的で、推しを選ぶ楽しさがある。
だが、きっと他に何か、人を惹きつける特別な魅力があるはずだ。
それは何か。
私は、鬼に対峙する登場人物が、皆「人間」だからなのだと思う。
柱や炭治郎達は、特異な能力を持ち合わせているにしろ、変身したり、腕が伸びたりすることは無く、傷も受けるし、手足も失う。そして、どんなに強くても、死んでしまったりする。
それは人間だから。
そして、登場人物は皆、心に苦しい思いを抱えている。大切な人を失った辛さ。助けられなかった辛さ。その自分を苛む気持ち。
その辛く苦しい思いを抱えながら、皆、途方もなく強く、時には面白おかしく、誰もがこの上なく魅力的なのだ。
その彼らを、私達は、自分の延長線上に捉えているのではないだろうか。
無論、あそこまでは到達できなくとも、私達も、頑張れば少しだけ、その強さを手に入れれられるんじゃないか。
だって彼らも同じ人間だもの。体も心も傷つく人間だもの。
頑張るのは辛い、しんどい。頑張らなくていい。
最近はよく、そう言われるし、それで救われもする。
ただ、生きていると、頑張らざるを得ない場面というものに、遭遇してしまう。そうしないと、進めないからだ。
人生に潜む数々の苦難は、鬼滅の刃の鬼のようだ。今はコロナが、まるで鬼のように潜んでいる。鬼に遭遇しませんように、襲われませんように。そう祈って、でも、ずっと身を隠してなんていられない。出て行かなければならない。
そんな時、鬼滅の刃に、炭治郎達に、勇気づけられて一歩踏み出せる。そう感じられるから、皆、鬼滅の刃が大好きなのだ。きっと。
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