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直感を検証する〜「感じる」には理由がある

ブラームスop68の終結部piu allegroは4つの小節を単位として動き出す。そして、それを分母として大きな6拍子を構成する。そして、その運動はまず415小節めに帰着する大きな呼吸で流れていく。

この大きな骨格が読み取れていることでここまでの「一連」の流れをたたみ込むように演奏することができる。

文章の読めない人は目立つフレーズに気を取られて文脈を読み取ることができない。つまり、一つの根で繋がる大きな流れを部分として認識してしまう。結果として、数合わせと継ぎ接ぎだらけの音並べに終わる。そこに文脈があるかどうかは結果でしかない。つまり、そういう演奏は、機械的な音鳴らしと同じでしかない。

そういう失敗した演奏の典型は407小節めの、コラール再現の部分を勢いが帰着した1拍目としてしまう。そのコラールのフレーズを目いっぱい引き延ばしてしまう。
つまり、このコラール再現が文脈の中のどこにあるのか読めていないのだ。
楽譜はなぜ、ここでテンポを明確に落とすことを指示しないのかは、この箇所がひとつの大きな弧の中にあるからなのだ。407小節を「1拍目」にしてしまう田舎芝居はそういう読み取りが出来ていないことに起因する。

だが、それでも、このコラール再現における10小節間はテンポがルバートするのは確かだ。問題は継ぎ接ぎとなるのか、文脈の読み取りの結果なのかの差である。

つまり、それは4つの小節を分母とする大きな6拍子としてのリタルダンドという流れの中にあるからだ。

6拍子拍節は、通常の4拍子拍節の安定を焦らし、帰着点を引き延ばす効果がある。クライマックスを築くのによく使うテクニックである。さらに、この407小節めからの10小節間は、それまで執拗に刻んできたあのリズムから解放されている。つまり、推進力がなくなって「慣性力」が残りつつ、その減衰の過程の具体化の場面とも言えるだろう。その過程は自然でもある。

部分的な視野による素人臭い田舎芝居と、この大きな6拍子と解放の過程とでは雲泥の差がある。つまり、大きな骨格の枠組みの中で、その6拍子拍節の骨格を動かすならば、その若干のテンポルバートはむしろ自然な結果となる。

インテンポの維持が楽譜通りであったとしても、そこには作品への共感がない。ここに物語や外部情報的なエピソードを盛り込むのも素人臭いのだが、このような大きな流れを発見し、従うことで充分に楽譜に寄り添った演奏ができるのだ。

ミニカーを直接的に動かす子供の遊びのような幼稚なエゴから脱却するには、そこに「理由」だ。その理由は精神的なものではなく、客観的なものでなくてはならない。

感じたままではダメなのだ。だが、そこに「感じた」ことには必ず理由がある。それは、仕組みを解き明かす「鍵」になる。直感を放置するのではなく、その理由を検証して明らかに出来る。それが大人なのだ。

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