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音楽における距離感が見えないとテンポ感は見えてこない

分析の先生方に言わせればD759の冒頭8小節は第1主題なのかもしれない。ただこの8小節の「導入」があって「主部」が始まるように捉えるとこの楽章の見え方が変わる。

先日も話題にしたようにこの冒頭の動きが6小節めに帰着するのか、9小節めに帰着するのかでは構成感がまるで異なるのだ。バッハの管弦楽組曲とかグルックの「アウリス」の序曲に見られるような、速度対比ではない「緩急対比」の感覚が理解できないとこの第1楽章は平坦な道のりにしか見えないかもしれない。この速度の対比がなければ場面転換が捉えられない感覚では音楽を読むことは難しいのではないだろうか?


よく例に出すのだが、ブラームスop98の第4楽章にとって「第1主題」とはどれだろうか? そもそもこの楽章を荘重なパッサカリアとみなして、変奏曲が積み重なっていく、という捉え方をしてしまっているようではこのソナタ形式を読み取ることはできない。シャコンヌテーマはあくまでもこの音楽の基盤に過ぎない。だが、それを「メイン」として捉えてしまっては「第1主題」も「第2主題」も変奏のどれかの印象的な場面にしか見えないのではないだろうか?そして、そういう誤解が3/2の場面であり得ないほどテンポを落としてしまう。あるいはそうでなければ良くないように捉えてしまう。楽譜を見ればわかるように、四分音符の速さは変わらない指定なのにだ。さらに言えば、3/4の二つの小節を分母としてきたこの楽章で、3/2に転換する意味さえ読めていないのも問題なのだ。シャコンヌ主題は二つの小節を分母にした大きな4拍子であることが読めていないことこそが問題なのだ。音響を聴いて論理を見ていないとはまさにこのことだ。

3/4と3/2の対比は速度の変化を伴わない緩急対比なのだ。

その第1主題がどこにあるのかが見えないと、この作品の距離感、縮尺がわからないということだ。それでは語られている論理は見えてこない。それは難しい講義を聞いていてもさっぱり頭に入ってこないのんびり学生と変わらない。一字一句を正確に聞き取ろうとしても論理が見えないのでは頭に入らない。論理を聞き取る、読み取る力がなくては、音楽を演奏することも、ましてや評論などすることさえできないだろう。

そういう力のない場合の時こそ、伝統的なテンポ感とかやり方と違うこととかにやたら口やかましくなる。だが、それは論理が見えていない哀れな自分を晒しているに過ぎないのだ。

論理が読み取れると曲の距離感、縮尺がわかる。聞き方が変わる。そして起伏が見えるのだ。

ブラームスop68の第二楽章もその論理が読み取れているのかを試される。この音楽が0小節めを起点とし、3つの小節を分母にした6拍子で始まっていることが読み取れない限り、この音楽の論理は見えないし、距離感もわからない。和音の響きを聞いていてもこの論理は全くわからないのだ。

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