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難しい問題は一度単純化してみる

ベートーヴェンop67の冒頭を難しくしてしまった原因は、それぞれの八分音符に意味を持たせ、音圧を響かせ、さも、「運命が扉を叩く」ような「演出」を常識にしてしまったこと。これには、かつての楽譜出版企業やレコード産業の経営的な戦略に責任がある。

だが、冷静に作品と対峙できる現代では、もう一度、楽譜からのみ情報を得ようという真摯な向き合い方が必要だ。

よく音楽のせんせいたちは、この冒頭は「八分休符」が存在することを、尤もらしく語っていたものだった。その休符分、詰まったために最初のインパクトが大変な迫力を生むと。それが八分音符たちに重みを齎すと。

確かにそうなのだろうけれど、問題はそれぞれの八分音符に均等な重みをかけて、それぞれに意味を語らせようとする捉え方だ。そのそれぞれの八分音符にそれぞれに意味を籠めるという熱い精神論は、音楽の形を歪め、空間のバランスを破壊して音響の氾濫に終わらせてしまう結果を招いた。

この「ジャジャジャジーン」という音圧群はそれぞれの音符に均等な圧力があって、結果として、「ジャジャジャ、ジーン」、さらには「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン」と進化してしまう。そうやってフェルマータのある二分音符に重心を置く形になってしまった。

だが、冷静に単純化して考えてみれば、この冒頭は

八分休符+付点四分音符|二分音符

なのである。

まず、この原型でこの冒頭を見なければならない。

単純化した形で考えると、この冒頭は、八分休符によるシンコペーションになっている。そのアクセントは付点四分音符の頭にあり、二分音符に重心はない。昨日のフェルマータ論と合わせて考えてみると、フェルマータをブレーキと慣性力の減衰空間として、理想的な形が見えてくる。

いわゆる「運命の動機」と呼ばれるこの5小節間は、これまで音楽的な流れから完全に切り離された「非音楽的」な音響でしかなかった。そういうあり方を支える理論もあった。
だが、そういう精神論的な捉え方では楽譜は全く意味をなさなくなる。
この手の類の人たちの場合、楽譜には意味がない、と主張する。そして、そこに伝記やら歴史的背景やらを盛り込もうとしてしまう。もはやそれは二次創作でしかない。そういう作品破壊を「解釈」と呼びたがる素人考えでは、作品は本来の形を冒涜された形で終わることに気が付かねばならない。



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