微分だけを積み重ねても全体像は見えない
チューニングにしても、アンサンブルにしても一点を見つめると分けがわからなくなる。いわゆるゲシュタルト崩壊だ。その精度を極める、という姿勢は日本人的には尊ばれそうだ。そういう積み重ねが大事を成すという考え方が好きだからだ。
だが、それは敵爆撃機に竹槍で向かうようなものである。そういう精神論は実は「支配的」な思想が仕掛けた罠であるように思う。
さて、微分的な分析は現実のある一点においては何かしらの解明になるかもしれない。だが、それが時間的な経過を無視したものである以上、「音楽演奏」には役立つ視野ではない。
個人は社会関係の中に生きている。同じように、音楽も作品、歌、フレーズといった関係性の上に成り立っている。相対的な関係性が見えなくては「自然さ」を保った演奏はできないのだ。
相対的な関係が見えるということは「全体像」の片鱗が見えているということに繋がる。微分的であるよりも、積分的な捉え方が出来なければ全体像との関係を持って音楽は出来ないとも言える。
例えば、先日のブラームスop68第4楽章終結部におけるコラール再現の部分だ。そのコラールをどれほど感動的に演奏したいと思っていても、その前後の関係性が見えていない演奏は田舎芝居にしかならない。流れを分断し、作品を壊していることにさえ気がつかない素人臭い演奏はしたくないものだ。
このようなある特定の部分を強調したいと感じているときは、それが含まれている大きな骨格に気が付かねばならない。それがわかっているからこそコントロールは可能になる。
このop68のコラール再現については、piu allegroからの「大きな6拍子」の骨組みが見えている必要がある。コラール再現はその大きな流れの中の部分でしかない。だから、ここを強調するには6拍子の枠組み自体を動かさねばならない。
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