「よく知っているはずなのに…」大事なのは記憶を越えて向き合うこと

子供の頃にペールギュント組曲に心を奪われて、クラシック音楽が好きになった。

青年期にとあるきっかけでその「朝」を練習の時に指揮しようとなった。が、そんな嬉しいはずの時に、「あ、思ってたようには動かせていない」と自信を失った、なんて経験がある。

よく知っているつもりであっても、いや知っているからこそなのか、演奏とはそうはいかないものなのだ。

さて、若い自分にとって、このベールギュントの「朝」がうまくいかなかった理由は、今となっては単純だ。6拍子が見えていなかったからだ。8分音符を6つ叩いたところで、あるいは付点四分音符二つでカウントしたところで、それではおそらくテンポはコントロールできない。音響を聞いてしまうからだ。それに合わせてしまう。つまり、音楽の主導権を握ってはいない状態だからだ。

6拍子を「三拍子が二つ」という「複合拍子」で捉えている状態では音楽に先立って動くことはできないだろう。それは「ワルツが難しい」のと同じ理由だ。その状態て指揮をしても多分、音楽ではなく仔細なことばかりしか見えてこないだろう。それはもう音楽をやっている状態ではない。

「小節」を越えて音楽が見える状態にならないと演奏はできないのだ。

例えばこの「朝」も、その最初のフレーズがどこに帰着するのかかさえ見えていないようでは演奏コントロールは不可能なのだ。

このフレーズは4つの小節が単位となっている。「小節の4拍子」という基本形が見えて、ようやく考察のスタートの位置に立てる。

0 1 2 3 | 4

この運動が単位なのだ。

結局、その4つの小節という単位による5拍子という骨格があることが見えて来ないとtuttiまでので道のりの全体像は見えてはこない。逆に言えば、そうなるとテンポ感が楽譜から見えてくる。

結局、音に注目し過ぎてしまうとそれぞれの音は結びつきを見失ってしまう。響きが意味を持ち過ぎると音になってしまう。そうやって「形」が見失われる。意味が失われた音響に意味を求める。それはますます作品の持つ形から乖離するだけである。「音響を楽しむ?」そりゃクラシックはつまらない訳だ。

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