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語るべき形

例えば、英語でこなれた語り口で喋ろうとする時、何かしら語り方のリズム感にテンプレート的なもの感じることがある。

語り方にはそれなりの形がある。まして詩には形がある。

音楽にも同じように形がある。それは教会由来のもの、あるいはダンス由来のもの、それぞれに固有の形がある。

音そのものに意味があるのではない。形として初めて意味をなす。

語るべき形を意識する。

その意識を持って演奏しないと、例えばコリオラン序曲もエグモント序曲もゲシュタルト崩壊したものに陥ってしまう。物々しいだけで意味のないものになる。

K.488の6/8adagioもその結果でしか形を語ることができない。

①0 0 ②1 2 ③3 4 ④5 6 ⑤7 8 ⑥9 10 |①11…

この冒頭に見る二つの小節の6拍子という形で語れないと付点リズムが死んでしまうし、12小節めのシンコペーションがその弾みのあるリズム感を生かせない。3/8拍子のリズム感に囚われadagioという言葉に騙されて哀惜な音響に浸ってしまうと作品の美しい姿が失われた、愚鈍でセンスの悪い演奏しか出来ないのだ。

音符のスピードでテンポを考えるのではない。語るべきものの形からテンポを探るべきなのだ。

ブラームスop68のun poco sostenuto も続くallegroも音響的な視点から捉えてしまわれがちだ。そのために趣味の悪い愚鈍なものにしかならない。世間でいうところの「ブラームスらしさ」とはそんな酷い誤解の上で認識されているのだ。

では、この序奏と主部、さらにはその終結部のmeno allegroにおける「形」とはなんであろうか。

この3つの場面で共通するのは「6連符」である。この連符がひとつのまとまりとして聞こえなければゲシュタルトは成り立たないのだ。三連符が二つではなく6連符というひとつとしてまとまっていなくてはならない。

そう考えるとこの3場面は決して遅くはない。序奏:主部:終結部の比率はおよそ2:1:2の関係であると考えるのが妥当だろう。そうであればそれらの移行は自然に行うことができる。そして、その3場面で6連符がひとつとしたかたちを持ち得るとしたらおよそテンポの範囲は限定されてくるだろう。その結論から考えれば現代の一般的な演奏イメージではどこも遅すぎると言わざるを得ない。6連符は完全に死んでいるからだ。特に序奏において6連符は単なる8分音符になってしまっている。それでは「形」にはならないのだ。

冒頭は6連符を意識すると、

小節の4拍子→3拍子→3連符の3拍子
→二つの小節による6拍子
→小節の4拍子→小節の4拍子→小節の6拍子

という3段階のまとまりでできている。

そしてその倍の比率による小節の4拍子でallegroが始まる。この主部は途中二拍子を挿入しつつ、4拍子や5拍子、6拍子と骨格を変えながら進んでいく。
終結部meno allegroは主部の半分のスピードで二つの小節による6拍子で進む。六連符が見えていればこの終結部は「浮く」ことはない。

音響で聞いてしまうと形は失われる。それはイデアを忘れて感覚的現実に囚われて目が濁ってしまうのと同じ。そうやって本来の論理から離れて堕落した音響快楽に溺れてしまう。

「アルルの女」のアダージェットの演奏が難しいのもその典型だろう。これは先のモーツァルトやブラームスの場合よりも難しい。因数分解的な把握ができないからだ。だが、4連符や5連符がそのフレーズのどういう位置にあるのかを吟味すると意味的なまとまりを把握できる。その変則的なそれぞれのフレーズを意識するとスッキリとした美しい姿が見えてくる。ムーディーなダンス音楽のようなしなやかな音楽が姿を現す。

だが音響しか聞いていないのよくあるような音響の垂れ流しになってしまう。

音楽は形で語ることを忘れてはならないのだ。

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