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「感じる」より「探究する」が必要〜シューベルト「未完成」第2楽章

D759の第2楽章も3/8 andante con moto で書かれている。「未完成」交響曲のロマンに取り憑かれるよりも、この事実の方がよほど大事なのだ。

この第2楽章の最初のフレーズの形が小節の6拍子であることが見えている場合、その開始は一言で語り出すことができる。

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予備振りの0小節めを起点として、6小節めに帰着する形がわかっているからこそ、ステップの軽いandante で動きをもって、その形を語ることができる。8分音符を数えていても音楽としての動きにはならない。それは新体操のリボンが不器用な動きにしかできないのと同じなのだ。

それは、昨日話題にしたベートーヴェンop67の第2楽章でも同じだ。語り出しの目標がアウフタクトの付点音形にしか向いていないのだとすると、もう「動きのあるandante」を実行することはできない。せめて、そのアウフタクトが起こした波がどこに落ち着くのかがわかっていなければ、意味としての形を語ることはできないのだ。これもまた小節の6拍子なのだが、その小節の6拍子の視野がなければ、この長いフレーズは結びつかないパーツの羅列にしか聞こえないのだ。ましてや主題をひとつの弧の中に結ぶことはできないのだ。

よく話題にするBWV1068のガヴォットが「真っ赤だな〜」になってしまう問題も音符しか見えていないから起きる失敗なのだ。シンプルで考える必要もないくらい簡単に見える楽譜だから、そのまま弾いてしまうのだろう。それは入試の現代文が頭に入ってこないのと同じ失敗に分類できる。記号を見ているだけで、その記号の羅列に留まってしまっている状態では相手の話は読み取れない。「難しい」「わからない」のを文章のせいにする。それでは読める訳がない。難解なものは伝わらないという逃げ口上をいう前に、「考える」が必要なのだ。

記号の羅列を読み取るのではない。そこにどのような仕組みがあって、どんな論理性があるのか、その意味を読み取ることが「読む」ことであるはずだ。「考えない」のに「感じる」ことばかり求めようとするから失敗するのだ。文章にしても音楽にしても、あるいは他の芸術作品にしても、作品は他人の思考で作られた、単純ではない構成物だ。簡単ではない。わからないから、感じられないから、伝える力がないと断じる前に、受け手は「考える」が必要なのだ。つまり、論理を読み取ろうとする努力も大事だということだ。印刷物に近寄って、記号としての文字や音符をただ見ただけではそりゃ見えないものがたくさんある。少し引いて、それらが作っている何かを探す、探る。それがないのに「感じたこと」「感じる」という本能レベルを優先したところで、それよりも知的レベルの高い論理がわかる訳がないのだ。

「感じることが大事」は「お客さん向け」の詞だ。演奏や批評する側は「感じる」レベルではダメなのだ。考える、探究するがなくては楽譜は読めない。楽譜が読めていないのに演奏したり、それを批評したりすることはできない。知識や蘊蓄が大事なのではない。それよりもまず楽譜を「読んで」、「考える」の方がずっと大事なことなのだ。

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