なぜ音楽に「乗れ」ないのだろう?
なぜ音楽に乗れないのだろう
鳴っている音響とだけ付き合っていることでは演奏はできない。というか作品自体を本当には掴めない。
日本人はリズム感が悪い、とかよく言われるが、このことも関係があるのではないだろうか?
ブラームスop73の第1楽章はたしかに3/4の音楽ではある。だが、この曲の「音響」だけしか捉えていないから4分音符の三角形で指揮しているつもりになってしまう。中学生の頃の感覚ではそうだったけれども。
この曲は鳴っている音響に先行して小節の4拍子がその基盤として流れている。その基盤はその4拍子を分母とする5拍子を形成する。
①0123|②4567|③891011|④12131415|⑤16171819|①20…
音楽はそこに載った状態になる。その4拍子にまず低弦が乗って1小節めを歌い出す。その低弦の作る波ににホルンが載って歌い出す。このホルンの吹くフレーズは低弦に「合わせている」のではない。むしろ、そこに「載っている」状態だ。
この基盤と低弦の波とホルンのメロディとの三重構造が見えない限り、この楽章の姿は見えない。3拍子の歌は所詮上澄みでしかないのだ。
基盤の上に音楽が載っている。
実はそれはこの曲に限ったことではない。おそらく、本来ダンス音楽はそういうものだったのではないだろうか。そして、そういったダンス音楽から発展していくバロックや古典の音楽もその構造を背負っているのだ。
BWV1068のガヴォットは上澄みの音響だけを聴いていると踊れない。この冒頭を「♪真っ赤だなあ〜」と聴いてしまうのはまさにその基盤を捉えていないからだ。このガヴォットの主題の基本形(反復の前まで)は小節を分母にした4拍子と6拍子のリレーを基盤として成り立っている。
01234|5678910|11…
この基盤の上にガヴォットのメロディが「載って」いる。指揮はその基盤を振っている。
この6拍子の挿入がこの音楽を複雑にしているのだが、反復の後は中間部を含めて4拍子が基本になっている。
続くブーレーは二つの小節を分母にして
①00 ②12 ③34 ④56|①78
とその基盤を作っている。だが、反復以降は、同じ分母の3拍子→6拍子→3拍子とリレーしている。
終曲のジーグは小節を分母にした4拍子が基本。
0123|4…
だが、反復後、52小節め以降は同じ分母の6拍子や3拍子を挿入したりして複雑な道筋を辿ることになる。
また、有名なエアも、0小節を起点とする小節の6拍子である。
これらのダンス音楽に見られるように、クラシック音楽には鳴っている音響の下部基盤にこのような構造が必ず存在している。
この基盤を把握できないと演奏も鑑賞も、上澄みの音響しか捉えられないのだ。
音楽に「乗れない」のはこのような音響に先行する基盤が掴めていないからなのではないだろうか。
少なくとも「指揮」はこの基盤を相手にするものであるのは間違いないのだ。先行する基盤を見ているから音響に先んじることが可能になる。
とすると、これらのバロックのダンス音楽への取り組みはソルフェージュの基礎として外せないものだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?