見出し画像

パーツを組み合わせて立体を作る〜ベートーヴェン交響曲第9番第3楽章

言葉の始まりは明確なものでなくてはならない。どこが視点であってどこに向かっていくのかが見えていて初めて「伝わる形」になる。音響を聴かせようとすることと、論理としての音楽を演奏することはここが違う。

楽器の練習を深くやっているほど「響き」に傾倒していく。それは悪いことではないけれど、その先にある罠に落ちてしまうと論理としての形を見失ってしまいがちだ。

本能的なこの罠に落ちてしまった人は言葉の始まりの不明確さを脳内補正していることに気が付かなくなる。その不明確さと尤もらしい響きで鳴らすことがある意味で「精神性」という勘違いに嵌る原因なのだろう。

英語やドイツ語に絡んでいるとこのような罠の存在に気が付かされる。日本語の柔らかな音声に馴染んでいる耳では気をつけないとこの罠に落ちることこそ深い世界だと勘違いしてしまうのだ。

そんなことをふと思い出したのは、この間ベートーヴェンop125第3楽章の楽譜を見ていたからだろう。木管楽器群の導入にのってメロディが歌い出される。だが、楽譜に書かれているそれと、よく聞くような演奏ではフレーズ感が違う。

2つの小節に跨るスラー→小節1つにかかるスラーを受けて6小節めに帰着する最初のフレーズ。

楽譜からスタートする場合、この3小節めから6小節目にかけてのフレージングをどう組み合わせて歌うのか?が問われるべきだろう。つまり、不均等な長さのスラーで括られたそれぞれのパーツでフレーズを組み立て、運動を成り立たせる必要がある。だが、響きに聞き馴染んでしまった記憶からスタートするとこの明確なフレージングがあやふやなものになる。このフレージングの組み立てが不明確だということは導入の二つの小節の存在意義も単なる雰囲気でしか無くなってしまう。なぜかというとこの楽章の開始の骨組みが見えてこないからだ。

①012 ②345 | ③678 …

という構図があって、このメロディは成り立っている。3小節目からの二つの小節のスラー→小節一つ分のスラーが6小節の頭に帰着する運動性が見える時、この冒頭の骨組みは3つの小節によるものだと見えてくるはずだ。そうすることによって、書かれていない0小節目の存在に光が当たるのだ。

この構造が見える時それぞれのスラーの入りは明解でなくてはならないことが分かる。なぜ不均等なスラーによるフレージングがなされているのかはこのようにパズルのピースを組み立てるように考えるのと似たものなのだ。

だが、聴いた記憶の和声感によって雰囲気を作ろうとする「響き」の姿勢では楽譜のフレージングの前に「我」の意識が優先されてしまう。楽譜を見てテンポが見えてこないのはこの「我」が先にあるからなのだ。

音響の記憶に頼る姿勢では楽譜は見えない。それは現代文の読めない受験生と同じなのだ。自分の記憶から成り立っている「我」が先にあると論文は読めない。最後まで読み取ろうとはしない。仔細な言葉に釣られて本旨を読み落としてしまう。

音楽演奏や批評における失敗もほとんどこれと同じなのではないだろうか?演奏比較での良し悪しなんてのはその最も良くない典型だろう。記憶や経験が優先されて「我」で見てしまう。それでは本旨が読めないのは当然なのだ。

さて、このように大きなスラーのあるフレーズと関わる時、そのスラーで括られた部分を「一つ」のパーツとして捉えられるかどうかは大事な課題だ。例えばD759の冒頭やベートーヴェンop60第2楽章などを読み解く時、この問題はとても大きいだろう。
そして、このような課題を乗り越えないとブラームスop68のun poco sostenuto のフレーズは読めない。テンポもわからない。だからあんな雰囲気しかない演奏に堕ちてしまうのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?