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Adagio のテンポ感は相対的に考える〜ハイドン交響曲第94番第1楽章

いわゆる古典派の作品と関わっていると、adagioはメトロノーム的に「遅い」のではないということに気がつく。

遅いテンポが伝統だから、それに従うべきだという反論もある。だが、そもそも「伝統」的なテンポ感なんて、19世紀後半以降のイメージでしかない。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの演奏が初演のころから「正確に」伝わっているわけではない。そのことはベートーヴェンのメトロノーム問題でいろいろな説があることが、「伝統」などというものがないことを証明している。また、レコードによる演奏史の変遷をみても、例えばブラームスやマーラーの場合はむしろテンポは遅くなっていった傾向が見られる。だんだんとオーバーになっていっただけだ。

K.543とかHob1:94などのその第1楽章序奏と主部の関係を楽譜から見ているとadagio のテンポ感は、聞いてきた記憶とは関係がないことがわかってくる。また、メトロノームの数値表自体が当てになるとは思えなくなってくる。
まあメトロノームの数値表がどのようにできたのかを知ると、そもそも交通ルールよりもあてにならないことが分かるだろう。

楽譜と演奏の現場との関係から見ても、楽譜はその間を合理的に考えられるように書かれている。指揮者がいない場合でも、合理的なテンポシフトが可能であったことは見えてくる。

さて、Hob1:94の第1楽章主部は6/8vivace assaiであるが、これと序奏3/4adagioとの連携はとても良くできている。

序奏は0小節めを起点とした4つの小節を分母にした音楽になっている。

①0 1 2 3 ②4 5 6 7 ③8 9 10 11 ④12 13 14 15 |

だが、この四回転のあとは、小節の3つの残して序奏は終わる。

この「小節3つ」というのがポイントになる。つまり、これを「小節の三拍子」とすると、そのまま主部vivace assaiに「直結」できる。

というのも主部の6/8vivace assaiも「小節の三拍子」でできているのだ。

(序奏)16 17 18 (主部)19 20 21 |22…

という設計が見えてくるのだ。


楽譜上には、序奏の最後にフェルマータがないのも、まさに「直結」を意図しているからだ。その証が序奏の最後の18小節めは、そのまま、主部のアウフタクトになっていることだ。「vivace 仮説」ではその音楽はアウフタクト的な「アップ」の呼吸から始まるのだが、見事にそれと符合する。

さて、この楽譜から考えられることは、序奏の最後の「小節の三拍子」は主部の「小節の三拍子」とほぼ同格であることを意図しているということだ。

つまり、遅すぎないadagioと速すぎないvivace assaiという関係が両者を結んでいる。その両者を実現できるテンポ感はおよそ楽譜から見えてくるのだ。

楽譜上のこの同等な緩急対比関係を見落としてしまうと、あるいは、序奏と主部の間に明確な空白がなくてはならないと決めつけてしまうと、この楽譜の目的は理解できない。

「記憶」のうわなぞりではない。
楽譜を見ている「自分」こそが作品とどう対峙するのかなのだ。

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